主日礼拝メッセージ(赤文字をクリックするとメッセージが聴けます。MP3ファイル)

コロサイ人への手紙1:24-29 「教会はキリストのからだ」  齋藤牧師

【今週のみことば】
「私は、キリストのからだ、すなわち教会のために、自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。(コロサイ1:24)

【礼拝メッセージ要旨】

パウロは、苦しみさえも喜びとしてキリストを宣べ伝え、教会に仕えました。このパウロの働きの原動力となったものは何だったのでしょうか。

1)苦しみも喜びとして
「私はあなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています」(24)この時パウロはローマで囚われの身となっていました。また、彼は遠く離れている教会の痛みを自分の痛みとして感じていたようです。そのように自分が苦しむことを通してもキリストの苦しみにあずかり、福音を届けることできることを彼は喜びとしたのです。パウロはそれほどまでに教会を愛し、教会に仕えました。

2)パウロの働きの源泉
では、パウロをそこまで駆り立てていたものは何だったのでしょうか。このパウロの働きの原動力となっていたこととして、3点挙げたいと思います。

①一点目は、「パウロの働きは神から委ねられた務めであった」ということです。パウロは、この働きは神が自分に与えてくださった大事な使命だと受け止めていました。ダマスコへの道でイエスに出会った時に召しを確信し、人生をかけて全力でこの使命に向かっていきました。私たちにも、それぞれ神様から委ねられている務めがあります。神様は私たちを用いて何かをなさいます。私たちが「与えられた人生を生き抜く」ことも、神様から委ねられた務めと言えるのかもしれません。このことを覚えて、感謝と喜びをもってその使命を果たしていきたいと思います。

②二点目は、「パウロに示されたことは神の奥義であった」ということです。「これは、多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現わされた奥義なのです」(26)「奥義」とは、「秘められたもの、隠されたもの」ということです。つまり、「隠されてきたものを神が明らかに示してくださる真理」そのような意味があります。その奥義が、「神の言葉」であり「キリスト」だというのです。旧約時代から救い主到来のことが少しずつ示されてきましたが、時が満ちて、2000年前神の御子が人として来られ、神の救いのご計画が実現しました。そのイエス様こそが、長年隠されてきて明らかにされた「神の奥義」です。神は、すべての人にこの良い知らせ(福音)を知らせたいと願われました。そしてパウロはその福音の使者として選ばれ、遣わされました。彼は、自分に託されたものがどんなに価値あるものであるか良く分かっていました。だからこそ、人生をかけて宣べ伝えたのです。神様は、福音を伝えるために私たちをも用いてくださいます。

③3点目は、「教会はキリストのからだである」ということです。「キリストのからだとは、教会のことです」(24)パウロは、キリストのからだであるからこそ教会は大事であり、教会に仕えていると言っています。その「教会」とは、どういうものなのでしょうか。「教会」(神に呼び集められた者たち)の中にも問題は起こります。完全には分かり合えないこともあります。教会は、決して地上のユートピアのようなところではありません。なぜならば、クリスチャンと言えども「罪赦された罪人」に過ぎないからです。私たちは不完全で、依然として弱さを抱えながら生きています。それでも、神に愛され、十字架の愛により赦されていることを感謝して、イエス様を見上げながら信仰生活を送っています。そんな一人一人の集まりが「教会」なのです。

神様は、私たちを教会の中に置かれます。そして、教会の中にいてこそ分かる恵みがあります。もちろん、お互いに祈り合い、励まし合えることは大きな恵みです。一方で、人間関係で思い悩むこともあるかもしれません。しかし、そうした時にこそ、神様に向き合わされるのではないでしょうか。そこで自分の姿や自分の中にある弱さに気づかされて、神様から取り扱いを受けることもあると思うのです。教会は人生の訓練を受ける場、とも言えるのかもしれません。「それは、すべての人をキリストにある成人として立たせるためです」(28)私たちは、いつまでも赤ん坊のままでいてはいけないのです。神様の助けをいただきながら、弱さが練られて、神を愛し、人を愛する者となれるように成長することが期待されています。そのためにも、私たちが教会の中に置かれていることは大事なのだと思います。
私たち一人一人は不完全で弱い者です。その不完全な者たちの集まりが「キリストのからだ」である教会だというのです。この教会の真ん中にイエス様はいてくださいます。私たちがどんなに弱くても、イエス様は決して見放さないで、私たちの中にいてくださいます。そして、私たちに寄り添ってくださいます。教会が苦しんでいる時、イエス様も一緒に苦しんでおられるのではないでしょうか。

私たちも、同じキリストの体の一部として、他の人の痛みを自分の痛みとして受け止められるようになりたいと思います。そして、これからも、キリストのからだである教会の一員として、教会を愛し、互いに仕え合ってまいりましょう。