主日礼拝メッセージ(赤文字をクリックするとメッセージが聴けます。MP3ファイル)

マルコの福音書10:17-31 「先の者があとになり」  齋藤牧師

【今週のみことば】
「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。」(マルコの福音書10:31)

【礼拝メッセージ要旨】

この個所には、ある一人の青年の問いを巡って、イエスが「先にいる者が後になり、後にいる者が先になる」ということを話された、一連の出来事が記されています。これは一体どういうことを教えているのでしょうか。

1)金持ちの青年の悩み
イエスの一行は、ガリラヤ地方から南に下って旅を続けていました。そこである一人の青年に出会います。「永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか。」彼はイエスの前にひざまずいてこう尋ねました。マタイ19章の方では、「永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」となっています。彼は、何か良いことをすれば、永遠のいのちを得ることができると考えていたようです。これに対してイエスは、神の戒めを示されますが、彼は「私は少年のころからそれらすべてを守ってきました。」と答えています。イエスは、彼をいつくしんで「あなたの持っている全財産を売り払って、貧しい人たちに与えなさい。」と言われました。これを聞いて彼は、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去りました。イエスはどうしてこう言われたのでしょうか。それは、自分の力で神の戒めを完全に守ることはできない、ということに気づかせるためであったと思います。イエスは、到底無理なことをあえて示して、彼自身が自分の無力さ、不完全さに気づくようにされたのです。

2)弟子たちへの問いかけ
「富を持つものが神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。」(23) このイエスの問いかけを聞いて弟子たちは驚きました。当時、ユダヤ人社会では、富は神の祝福と考えられていたからです。「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方が易しいのです。」(25) これは、自分が持っているものに執着しないようにと戒めていることだと思います。もちろん、富も賜物も、神様の恵みとして与えられるものです。感謝して受け取ってよいのです。しかし、それにより頼み、それを与えてくださった神様よりも大事になってしまってはいけないということです。私たちも気を付けなければなりません。
このイエスの言葉を聞いて、弟子たちはさらに驚いて、「それでは、だれが救われることができるでしょう。」と尋ねました。「それは人にはできないことです。神にはどんなことでもできるのです。」(27)人が救われるのは人の努力や善い行いによってではなく、ただ神の恵みによるのです。

3)先の者があとになり
「私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。」(28) ペテロは、すべてを捨ててイエスに従ってきた自分たちは大きな報いを受けられるだろうと期待をしたようです。結局弟子たちも、自分たちの行いを誇っていました。これに対してイエスは、イエスのためにすべてを捨てた者は、迫害とともに、失ったものの100倍もの恵みを受けて、さらに来るべき世で永遠のいのちを受けるのだと約束されました。これは、間違いのない確かな約束です。

 しかしイエスは、続けてこうも言われました。「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。」(31) これは、どういうことを教えているのでしょうか。マタイの方では、イエスがこの後に「ぶどう園のたとえ話」を話されて、そのたとえを通してこの言葉の意味を説明しています(マタイ20章)。ある家の主人が、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く市場に出かけて、そこにいた労働者たちと一日一デナリの約束で雇い入れました。彼は9時、12時、午後3時、そして5時にも出かけて、同じようにそこにいた人たちを見つけて雇い入れます。そうして夕方になって、彼らにそれぞれ賃金が支払われましたが、最後に雇われた者たちも、朝早く雇われた者たちも等しく1デナリでした。朝早く雇われた者たちは主人に不満をもらします。納得出来なかったのです。でも、彼らは主人と一日一デナリの約束で働いていました。本来なら、主人に感謝して受け取るべきでした。ところが、他の人たちの賃金を知ったときに、感謝するどころか不満を抱いたのです。喜べませんでした。主人は彼らにこう答えます。「あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。」ここに、神様の私たちに対する深いあわれみが示されています。その人の行いや働きによらず、神を求める者には、豊かに恵みを注いでくださいます。

「先の者が後になり、後の者が先になる」とは、「先にいる」と思っている者たちへの戒めとして語られたのではないでしょうか。直接的には、あの金持ちの青年であり、ユダヤ人の宗教指導者たちの姿であり、そして弟子たちの姿でもあったと思います。そのように、自分の行いを誇り、人と比べて見返りを期待するときに、感謝がなくなり、喜びがなくなってしまいます。喜んで神に従うことができなくなってしまうのです。そのことを「後になる」と言っておられるのではないでしょうか。
これは、クリスチャンである私たちへの戒めでもあると思います。私たちも、自分はクリスチャンだと、心のどこかで高ぶったり、信仰の年月の長さを誇ったり、人と比べて誰かが自分よりも恵まれていると感じるときに、ねたましい思いを抱くようなこともあるかもしれません。しかし、考えてみれば、イエス様を救い主として受け入れた私たちは、すでに計り知れないほど大きな恵みを受けているのです。イエス様の十字架の血潮によって、罪の赦しをいただいて、神の子どもとされました。それは、自分の努力では、到底かなわないことでした。ただ、神様のあわれみと恵みによってもたらされたことです。この恵みが本当に分かるのであれば、自分のなしたことを誇る必要も、人と比べる必要も全くないのです。私たちは、このことをしっかりと心に留めたいと思います。そして、日々与えられる、尽きることのない神様の恵みを、心から感謝して受け取りたいと思います。そしてさらに、自分のしたことを忘れるくらいに、見返りを求めることなく、自然と愛の行いが出来る者になれたら素晴らしいのではないでしょうか。

感謝と喜びを忘れずに、イエス様にお従いしてまいりましょう。