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マルコの福音書6:1-6 「イエスにつまずくとき」 齋藤牧師
【今週のみことば】
「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」(マタイの福音書11:6)
【礼拝メッセージ要旨】
今日の個所には、イエスの郷里の人たちがイエスにつまずいたという出来事が描かれています。今日はこのところから、私たちも経験するかもしれない「つまずき」ということについて、ご一緒に学びたいと思います。
1)イエスにつまずいた人たち
その後イエスは、カペナウムを去ってご自身の郷里であるナザレの町に向かいます。町の人々はイエスのことを幼い頃からよく知っていて、あの大工の「ヨセフのせがれ」としてかわいがってきたと思います。そこでイエスは、いつものようにユダヤ人の会堂で教え始められました。「この人は、こういうことをどこから得たのだろう。」(2) ナザレの人々は、イエスのすばらしい教えを聞いて、「あのヨセフのせがれ」にどうしてこんなことができるのかと疑いました。彼らは、思い込みや先入観でイエスのことを見ていました。そこでイエスは「何も力あるわざを行うことができなかった」(5)とあります。これは、彼らがイエスをキリストとして信じることが出来なかったために(彼らの「不信仰」のゆえに)、イエスはみわざを行われなかったということです。そのように、ナザレの人々は、「イエスにつまずき」ました。
2)「つまずく」とは?
聖書に出て来る「つまずく」と訳されている言葉には、「罠にかかる」、「腹を立てる」という意味があります。つまり、「つまずく」とは、「怒りの感情から、罠にかかってしまい、本来の道から外れてしまうこと」を意味しています。
3)なぜつまずくのか?
では、人はなぜ「つまずく」のでしょうか。聖書に登場するイエスにつまずいた人たちの3つのケースから考えてみたいと思います。
①まず、ユダヤ人の宗教指導者たちのケースです。彼らは、自分たちこそ神の戒めを忠実に守っている「正しい人間」だと考えていました。しかしイエスは、彼らは偽善的で、心から神に従っているのではないと断罪しました。そんなイエスに対して彼らは腹を立て、憎しみを抱き、ついには殺すことを企てました。自分たちが「ないがしろにされた」と感じたからです。そのように、「自分がないがしろにされた」とか、「自分が不当に扱われた」と感じる時、人はつまずきを覚えると思います。
②次に、イエスの弟子たちのケースです。彼らはイエスを信じ、イエスに従ってきましたが、イエスのなさること、教えられたことを完全に理解することはできませんでした。そうしてまず、イスカリオテのユダが、イエスを裏切ります。ユダの中にイエスに対する不満があったからです。彼はイエスを、この国をローマの支配から力によって解放してくれるお方だと期待していたようです。しかしイエスは一向にそのような行動は起しませんでした。そんな「期待外れ」の思いが、イエスに対する怒りの感情となって、イエスにつまずくことになったのではないでしょうか。私たちも、人に期待しすぎる時に、自分が願ったようにならなかった時に失望し、怒りの感情を抱いてしまうということがあるように思います。
③もう一つのケースは、今日の個所にある、イエスの郷里の人たちの場合です。彼らは、昔から知っているイエスの教えを聞いて、素直に信じることが出来ずにイエスにつまずきました。彼らの中に、イエスに対する妬みの感情があったからだと思います。幼いころから自分たちが面倒を見て、一緒に暮らしてきた「この人」が、ある時突然会堂で教えるようになって、上から目線で偉そうなことを言っている、そんなふうに受け止めたのではないでしょうか。そのように、私たちも、妬みの感情を抱く時に、その人に腹を立てて「つまずく」ということがあるように思います。
私たち人間は、本当に「つまずきやすい」者です。誰かにないがしろにされたと感じる時に、人に対して一方的に過度な期待をかけて期待外れに終わる時に、そして妬み心を抱く時に、腹を立ててしまいます。そうして、それが罪への罠となって、罪を犯してしまうこともあるのです。このことをしっかりと心に留めたいと思います。
4)つまずかないために
では、私たちが人に対して、またイエス様に対して「つまずかない」ようにするために、どうすればいいのでしょうか。大切なこととして、2つのことを心に留めたいと思います。
①一つは、「イエスが全能の神であることを信じる」ことです。もしイエスが、この私の願いを聞いて、必ず願ったようにしてくれるはずだと考えるとしたら、いつかつまずくことになるでしょう。イエスはこの世界を造られた全能の神様です。イエスのみ思いは、私たちの思いをはるかに越えたところにあるのです。このことを信じることができるなら、たとえ自分の願ったようにならないとしても、それがイエスのみこころなのだと信じて、ゆだねることができるのではないでしょうか。このイエスに信頼することができるなら、人につまずくこともなくなると思うのです。
②もう一つのことは、「イエスにしっかりとつながっていること」です。「種まきのたとえ」(マルコ4章)の中に「岩地に蒔かれた種」の話があります。岩地に蒔かれた種は、根が張っていないために枯れてしまいました。そのように、自分の中に根がないと、困難にぶつかった時にすぐに「つまずいてしまう」(4:17)というのです。つまり、つまずかないためには、イエスに「しっかりと根を張っていること」(つながっていること)が大事であることが分かります。そのためには、みことばと祈りを通して、常にイエス様との個人的な交わりを保ち続けることが大切です。私たちの「救いの岩」であるイエス様に、しっかりと根を張って、つながり続けてまいりたいと思います。
「つまずき」は、決して人ごとではありません。人に、そしてイエス様につまずかないように、全能の神であるイエス様に信頼し、しっかりと根差してまいりしょう。