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マルコの福音書2:1-12 「あなたの罪は赦された」 齋藤牧師
【今週のみことば】
「イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。」(マルコの福音書2:5)
【礼拝メッセージ要旨】
聖書は、「すべての人は罪を犯した」(義人はいない。一人もいない)と語っています。それはどういうことなのでしょうか。今日は、「私たちの中にある罪とその赦し」ということについて考えたいと思います。
1)中風の人をイエスのもとへ
イエスがカペナウムの町に戻って来られて、家で教えておられると、一人の中風の人が4人の人に担がれてきました。「このお方なら、この病を必ず治してくれる」と信じて、必死の思いで連れてきたのだと思います。しかし、人がいっぱいで、戸口からは中へ入れません。そこで彼らは大胆な行動に出ます。何と、その家の屋根に登って、穴をあけて、天井からその人をつり降ろそうとしたのです。そこまでして、この人を助けてあげたいと願いました。私たちも、彼らのように、助けを必要としている誰かのために親身になって手を差し伸べる者となりたいと思います。自分にもできることや、自分だからこそできることがきっとあるはずです。もちろん、「この人を何とかしてイエス様のところに連れていきたい」と願うことも、私たちにできるのではないでしょうか。そして、熱い思いをもって、イエス様を紹介し、イエス様のところに連れていきたいと思います。
2)罪とは
そんな彼らの姿を見て、イエスは彼らの「信仰」をご覧になり、その中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」(5)と宣言されました。彼らが願っていたことは中風がいやされることでした。しかしイエスは、「あなたの罪は赦された」と言われたのです。これはどういうことなのでしょうか。
ここで少し、聖書にある「罪」ということについて考えてみたいと思います。例えば、「イエス・キリストは、私たちの罪のために十字架につけられた」と言われます。その「私たちの罪」とは、どういうことでしょう。世の中には、罪とは無縁のように思われる立派な人たちもいます。しかし聖書は、そうした人たちも含めてすべての人は罪を犯している、と語っているのです。
聖書で言う「罪」という言葉には、「的を外れている」という意味があります。本来向くべきところを向いていないということです。「本来向くべきところ」とは、この世界を造り、私たちを造ってくださった、創造主である神様のことです。その創造主から離れて、神様の方を向いていない状態(背を向けている状態)が、的外れ(つまり「罪」)なのだというのです。言い換えれば、「神様との関係が切れている状態」です。これは、人間にとって実によろしくない状態です。造り主から離れているために、私たちは具体的な罪を犯してしまいます。自分自身ことや世の中のことを見ても、そのことがよく分かると思います。そのように、例外なくすべての人は、生まれながらにして「罪人」であって、罪の赦しを必要としているのです。
イエスは、中風の人に「あなたの罪は赦された」と告げました。この人も、他の人たちと同じように神様から離れて生きていました。健康な時はそのことに気づくことはなかったのでしょう。しかし、病気になり不自由な身になって、自分の中にある罪(神様から離れていること)に気づかされていったのかもしれません。そして彼は、心からイエスを求めたのだと思います。イエスは、彼の罪の赦しを宣言されました。それは、それまで離れていた神様との関係が「回復されること」を意味しています。それは、中風がいやされることよりも大事なことでした。
3)罪を赦す権威を持つお方
このイエスの言葉を聞いて、その場にいた律法学者たちが心の中でつぶやきます(6,7)。彼らは、「神以外に罪を赦すことはできないはずだ。この人は自分を神としている。」と言って、イエスを非難しました。イエスは彼らに、「あなたの罪は赦された」と言うのと、「起きて歩け」と言うのと、どちらが易しいかと尋ねます。言うだけなら誰にでもできます。しかし、「起きて歩け」と言って、歩かせることは人にはできないことです。その難しい方をイエスはなさいました。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために」(10)と言って、「起きなさい」と命じて、中風の人は立ち上がります。実際に病をいやすことによって、イエスはこの人の罪が赦されたことを示されたのではないでしょうか。イエス様は、私たちの罪を赦すことのできるお方です。
4)罪の赦しについて
神様が私たちの罪を赦してくださる」とは、どういうことなのでしょうか。最後に、この「罪の赦し」ということについて考えてみたいと思います。「赦す」と訳されることばには、「覆う」とか「取り上げる」という意味がありますが、私は「帳消しにする」という表現が分かりやすいように思います。「負債を帳消しにする」ということです。マタイ18章に、王様から一万タラントの負債を免除された家来のたとえ話があります。王様は彼をあわれに思い、彼の力では到底返済できない大きな負債を帳消しにしてあげました。そのように、「罪の赦し」とは、私たちが神様に対して負っている膨大な負債をすべて帳消しにしてもらうようなことです。罪が赦されるためには、犯した罪に対する「償い」が必要とされます。「償い」がなさなれなければ、「赦し」はないのです。しかし、私たちが神様に負っている負債はあまりにも大き過ぎて、とても私たちにはそれに見合うものを差し出すことはできません。
では、神様はどうして私たちの罪を赦すことが出来るのでしょうか。何を根拠に、赦してくださるのでしょう。それは、神様ご自身が私たちに代わって「償い」をなしてくださったからです。私たちには到底支払うことのできない、大きな罪の負債(代価)を、神様が代わりに支払ってくださいました。神のひとり子であるイエス様が、十字架で流された血潮によってです。このことを信じて、自分の罪を悔い改めて、イエス様を自分の救い主として心にお迎えするならば、その人は罪の赦しを受けるのです。そして、神様との関係が回復されて、永遠のいのちを受け継ぎます。これが、私たちに約束されている「キリストの十字架」による「罪からの救い」です。
これほどまでに、神様は、私たちのことをあわれんでくださいました。この大きな恵みを覚えて、心からの感謝をおささげしたいと思います。そして、大きな罪を赦された者として、私たちも人を赦す者となりたいと思います。