主日礼拝メッセージ(赤文字をクリックするとメッセージが聴けます。MP3ファイル)

マルコの福音書1:32-39 「福音を伝えるために」  齋藤牧師

【今週のみことば】
「さあ、近くにある別の町や村へ行こう。わたしはそこでも福音を伝えよう。そのために、わたしは出て来たのだから。」(マルコの福音書1:38)

【礼拝メッセージ要旨】

マルコの福音書には、イエスが病気をいやされたことや悪霊を追い出したことが多く描かれています。イエスが「いやし」を行われたということには、どんな意味があったのでしょうか。

1)イエスは「いやしのみわざ」をなされた
イエスがカペナウムの会堂で教えをされた日の夕方のことです。日が沈んで安息日が明けるのを待ちかねたように、町の人々は病人や悪霊につかれた人たちをイエスのもとに連れてきます。イエスのうわさを聞いて、このお方ならいやしてくれるだろうと期待をかけたようです。それを見てイエスは、病気の人々をいやし、悪霊を追い出しました。このように、イエスが病のいやしと悪霊を追い出すというみわざを数多くなさったことが福音書に記されています。イエスはどうして「いやしのみわざ」をなされたのでしょうか。ただ単に、人々がイエスが神であることを信じるために奇跡を行った、ということではなさそうです。イエスがいやしのみわざをなされた理由として考えられることを、2点ほどあげたいと思います。

2)深くあわれんで
一つは、イエスが人々のことを「深くあわれまれた」ということです。ツァラアトに冒された人がイエスにいやしを求めた時に、イエスは「深くあわれんで」彼をいやされました(41)。このように、イエスは病やさまざまな困難におかれている人々のことを「深くあわれんで」見ておられるのではないでしょうか。イエスは、目の前で苦しんでいる人々のことをあわれみ、いやし、苦しみから解放してくださいました。そのように、イエスがいやしのみわざをなされたということには、苦しんでいる私たち人間に対するイエスの深いあわれみが表されていると思います。

3)預言の成就として
もう一つのことは、「預言の成就として」なされたということです。この同じ出来事をマタイは、「預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった」と証言しています(マタイ8:16,17)。「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った」と、イザヤ書53:4を引用して説明しています。このイザヤ書のことばが、イエスが人々の病をいやされたことによって成就したというのです。将来救い主として来てくださるお方は、人々の痛みや悲しみを取り去り、代わりに負って(引き受けて)くださるお方だということです。それは、まさにイエスが十字架でなしてくださったことでした。イエスが病をいやされたということは、その後なされることになる十字架のみわざを表していることであったと言えます。このところからも、イエスは昔から預言されていた救い主として来られたお方であることを表わしています。

4)福音を伝えるために
さて、そうしてイエスは、夜の間も人々のいやしをされておられたようです。しかし、そんな忙しさの中でも、イエスは一人父なる神の前に出て祈ることを大切にされていました(35)。父なる神様のみこころを確認していたのです。そこにシモンたちがイエスを捜しにやって来た時、イエスは「さあ、近くにある別の町や村へ行こう」(38)と言われます。何と、大勢の苦しんでいる人たちを置いて別の町へ向かう、というのです。「わたしはそこでも福音を伝えよう。そのために、わたしは出て来たのだから」(38) それは、「福音を伝えるため」でした。この時イエスにとって何よりも大切なことは、より多くの人々に「福音を伝えること」(ご自身のことを知らせること)でした。「福音」とは、人に救いをもたらす「良い知らせ」のことです。福音を受け取ることは、病がいやされることよりも、もっと根本的な解決につながることです。病がいやされることは「一時のこと」にすぎません。しかし福音は、すべての問題の解決をもたらしてくれるものです。福音を受け取ることは、「一時の肉体のいやし」よりもはるかに大きな、「たましいの救い(永遠のいのち)」につながることです。救い主イエスを信じて、造り主である神様とつながること(関係を回復すること)は、人にとってどんなことよりも大きな価値あることなのです。神様は、私たちがこの「永遠のいのち」を受け取ることを願って、ひとり子イエス様を遣わしてくださいました。ここに、私たちに対する神様の大きな愛が表されています。このことを心にしっかりと留めて、私たちにも福音が届けられたことへの感謝を忘れないようにしたいと思います。そして私たちも、この福音を伝える使者として用いていただけるようになりたいと思います。

5)一人静まり祈ること
最後に、このイエスの姿から教えられることを一つ確認したいと思います。それは、「どんなに忙しくても祈りの生活を大切にする」ということです。イエスは、超多忙な日々の中にあっても、一人父なる神様の前に出て祈る時を大切にされました。この姿勢に、私たちもならいたいと思います。なぜ、忙しい時にこそ祈りの生活が私たちにとって大切だと言えるのでしょうか。その理由として、特に2つのことを挙げたいと思います。
①一つは、「自分を顧みるため」です。心を静めて祈ることによって、今、自分は神様の前にどうあるのかを客観的に顧みることができると思います。祈りを通して、神様の大きなご計画の中で、自分の使命(立ち位置)を確認したいと思います。そうすることで、どんなに忙しくても、自分にとって本当に大事なことを見失うことから守られるのではないでしょうか。常に神様の前に一人静まる時をもって、自分を顧みることを大切にしたいと思います。

②もう一つのことは、「誘惑に陥らないため」です。自分を忙しくすることは、ある意味で誘惑ともなると思います。イエスのもとには、いやしを求めて大勢の人々が集まってきました。もし、私たちがそういう立場に置かれたとしたら、自分はこんなにも必要とされていると思い込んで、高ぶってしまうかもしれません。そうすると、自分の力を過信して、神様に信頼することを忘れてしまう、ということにもなりかねません。それは非常に危険なことです。イエスは、どんなに忙しくても一人父なる神様の前に静まって、祈る時を大切にされました。そして、御父のみこころを第一に求めたのです。

私たちも、このイエスの姿にならいたいと思います。