●主日礼拝メッセージ(赤文字をクリックするとメッセージが聴けます。MP3ファイル)
マルコの福音書1:21-28 「力あるみことば」 齋藤牧師
【今週のみことば】
「人々はその教えに驚いた。イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。」(マルコの福音書1:22)
【礼拝メッセージ要旨】
イエスは、ことばで命じることによって多くの奇跡をなさいました。今日は、イエスのことばのもつ力についてご一緒に思いを巡らしたいと思います。
1)カペナウムの会堂で
イエスはカペナウムの町で、ある安息日に「会堂」に入って教えられました。ユダヤ人が「会堂」(シナゴーグ)で礼拝をささげるようになったことには、歴史的な背景があります。バビロン捕囚後に、彼らがそれぞれ置かれている町々で神を礼拝するために集まったことがその起源とされています。以来、会堂での礼拝は続けられ、律法が伝えられ、信仰が継承されてきたのです。その律法を教える教師が「律法学者」でした。
2)律法学者たちのようにではなく
この時、イエスの教えを聞いて、人々は驚きます。「イエスが律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたから」(22) 「律法学者たちのようにではなく」というのは、どういうことなのでしょうか。当時ユダヤ教には、「トーラー」と呼ばれる律法(モーセ五書)の他に、口伝えで伝えられた教えとして、「ハラカ―」と呼ばれる口伝律法がありました。律法学者たちは、安息日の礼拝の中で、律法を解釈し、具体的な適用として口伝律法を人々に教えていたようです。それに対してイエスは、それとは全く違うように人々に教えられました。律法を人間に与えたお方として、律法の本来の意味や、どう生きるべきか、ということを教えられたと思われます。また、「イエスは権威ある者として教えられた」とあります。当時、律法学者は「権威」ある者とされていました。しかし、イエスにはそんな立場はありません。それでも、イエスの教えを聞いた人たちは皆、イエスの語る言葉に実質的な「権威」を感じたのです。「肩書き」や「経歴」に関係なく、イエスご自身に権威(力)が感じられたということです。
3)汚れた霊がイエスに従う
そのイエスの権威を裏付けるような出来事がその時に起こります。そこに「汚れた霊につかれた人」がいて、汚れた霊がイエスに気づきます。彼はイエスを恐れて叫び、イエスはことばで命じて、汚れた霊を追い出しました。「これはなんだ。権威ある新しい教えだ。この方が汚れた霊にお命じになると、彼らは従うのだ。」(27) これを見ていた人々はみな驚いて、イエスのことばには、権威(力)があることを認めざるを得ませんでした。
4)イエスの言葉には力がある
ルカ7章に「ある百人隊長」の姿が描かれています。カペナウムの町にいた100人の部下を率いる隊長です。ある時、彼の部下の一人が重い病気にかかり、危篤に陥ります。隊長は、何とかして彼を助けてあげたいと願い、知り合いのユダヤ人の長老たちを送って、イエスに助けを求めました。イエスは彼の家に向かいますが、その手前で彼は人を送って「わざわざご足労いただくには及びません。ただおことばを下さい。そうして私のしもべを癒してください。」と申し出ます。彼はなぜそうしたのでしょうか。彼は軍隊の隊長として、「権威」というものを知っていたからです。そして、イエスには人の力を越えた大きな権威があることを信じていました。彼はイエスを自分の「主人」とします。だからこそ、イエスが命じるならばそれは必ずなると信じることが出来たようです。これを聞いてイエスは、「イスラエルのうちでも、これほどの信仰は見たことがありません」と言って彼を誉め、その部下は癒されました。彼はユダヤ人でないにもかかわらず、イエスに直接会うことなくイエスを信じました。この出来事は、イエスのことばには力があると信じることの大切さを教えているように思います。
私たちはどうでしょう。この百人隊長のように、イエスの言葉(みことば)の権威を信じているでしょうか。みことばには力があると心から信じて祈っているでしょうか。このことを信じて、みことばに信頼し、従う者となりたいと思います。
5)みことばに直接聞くこと
最後に、今日の個所に関連して一つ大事なことを確認したいと思います。それは、「みことばに直接聞く」ということです。神様は、聖書のみことばを通して私たちの心に語りかけてくださいます。しかし、神の語りかけよりも、人の言葉に聞いてしまうということもあるかもしれません。どんなに心引かれる言葉でも、人の言葉は絶対に正しいとは限らない、ということを心に留めたいと思います。例えば、今自分が願っていることを後押ししてくれるような人の言葉は安心して聞くことが出来ますが、耳が痛いようなことはあまり聞きたくないものです。そうすると、聞きたいものだけを選んで聞いてしまいます。また、自分の背中を押してくれるようなみことばを捜す、というようなことはないでしょうか。それでは、みことばを自分の都合の良いように利用してしまうことになります。
そうならないように、イエスのことばに直接聞くということを大切にしたいと思います。人が何と言っているかと言うことよりも、まず自分でみことばの前に静まって、ゆっくりと思い巡らす時を持ちたいと思います。そうして何度も読んでいるうちに、心に示されることや見えてくることがきっとあると思います。それは、その人にとって、大きな恵みとなるはずです。
あの百人隊長のように、イエスのことばには力があると信じて、みことばに聞いてまいりましょう。