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マルコの福音書1:14-20 「わたしについて来なさい」 齋藤牧師
【今週のみことば】
「「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。」(マルコの福音書1:17,18)
【礼拝メッセージ要旨】
今日は、イエスの招きに答えて従った弟子たちの姿に学びたいと思います。「イエスに従う」とは、どういうことなのでしょうか。
1)ヨハネからイエスへ
バプテスマのヨハネは、ガリラヤの領主であったヘロデ・アンティパスによって捕らえられ、処刑されてしまいます。そして、ヨハネに代わるように、イエスが宣教の働きを開始します。イエスは、ガリラヤ地方で「神の福音」を宣べ伝え始めました。「福音」とは、「人に罪の赦しと救いをもたらす良い知らせ」ということです。
2)イエスの招き
今日の個所には、4人の漁師たちがイエスに呼ばれて、イエスの弟子として歩み出す姿が描かれています。イエスはまず、シモン(ペテロ)と彼の兄弟アンデレに出会います。ヨハネの福音書1章によると、彼らはすでにイエスに出会っていたようです。この時ペテロとアンデレは、いつものようにガリラヤ湖で網を打っていました。そこにイエスが近づいてきて、声を掛けます。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」(17) すると彼らは、「すぐに」「網を捨てて」イエスに従いました。ルカ5章には、イエスがなされた大漁の奇跡を見て、彼らがイエスに従ったことが記されています。同じ出来事だとすると、彼らの驚きと感動が想像されます。
網を「捨てる」ということは、仕事を手放す(生活の糧を失う)ということを意味しています。それでも彼らはイエスについていく道を選びました。ここに、自分の人生を掛ける価値があると信じて、イエスに従ったのです。
イエスはさらに、ヤコブとその兄弟のヨハネをお呼びになりました。すると彼らも、「父親を雇い人たちとともに船に残して」イエスについて行きました。「父親」は大事な家族です。また、「雇人たち」や「船」は、社会的責任とも言えることです。家族に仕えることや社会的責任を放棄してまで、イエスについて行ったようにも思えます。彼らも、イエスの弟子として生きる道を何よりも大事なことだと受け止めて、イエスの招きに答えました。
3)イエスはなぜこの4人を選ばれたのか?
では、イエスはどうしてこの4人をお呼びになった(選ばれた)のでしょうか。彼らは、「ガリラヤの漁師たち」でした。「ガリラヤ」は、エルサレムから北に遠く離れた辺境の地で、人々から「異邦人のガリラヤ」と呼ばれ、さげすまれているような土地でした。また、彼らは「漁師たち」でした。ガリラヤ湖周辺では、「漁師」はごく普通の職業であったようです。一方、エルサレムには、祭司や律法学者、パリサイ人といった、聖書に精通し、神の教えを熱心に守っていた人たちが多くいました。しかしイエスは、そうした「エリートたち」を選ばずに、むしろいろんな「弱さ」を抱えていた者たちを弟子として選ばれたのです。なぜでしょう?彼らは、ユダヤ人の「民衆」の一人として、人々の生活を知っていて、人々の苦しみも弱さも全部分かっていました。イエスご自身もそうでした。そしてイエスは、福音をすべての人々に届けたいと願われました。そのために、あえてガリラヤの漁師たちであった彼らを選ばれたのではないでしょうか。もしイエスが、エルサレムのエリートたちを弟子として選んでいたとしたら、福音は民衆には届かなかったでしょう。
4)彼らはなぜイエスについて行ったのか?
では、彼らはなぜイエスの招きにすぐに答えることが出来たのでしょうか。彼らは、「人間をとる漁師」という言葉に心が引かれたのかもしれません。彼らは、漁師であることに自信と誇りをもっていたと思います。そんな彼らにイエスは、「あなたがたは人間をとる漁師になる」と言われたのです。ということは、今自分がやっていることの延長にイエスに従う道がある、ということではないでしょうか。これまでの人生経験や知識やスキル、人間関係、そうしたものがすべて生かされて、福音のためにイエスが用いてくださる、ということです。これなら自分にもついて行ける、イエスのお役に立ちたいと、彼らの心が動かされたのだと思います。イエスに従うということは、それまでの生活から完全に切り離されて、別世界に入っていくようなことではありません。今の生活の延長にイエスに従う生き方があると思うのです。
5)イエスは私たちを招いておられる
最後に、今日のこの個所から考えたいこととして、2つのことに目を留めたいと思います。一つは、「イエスは私たちを招いておられる」ということです。イエスはすべての人に対して、「わたしの与える救いを受け取りなさい」と呼び掛けておられます。イエスは、十字架で私たちの罪の赦しと救いの道を開いてくださいました。それは「福音」として、すべての人の前に差し出されています。あとは、その呼びかけに答えて、感謝を持って受け取るだけです。さらにイエスは、救いにあずかった私たちに対して、生涯をかけてわたしについて来なさいと励ましておられます。このことを心にしっかりと留めて、どこまでもイエスにお従いしたいと思います。
6)「イエスに従う」とは?
では、私たちにとって「イエスに従う」とは、どのように生きることなのでしょうか。2つ目のこととして、このことを確認したいと思います。4人の弟子たちは、イエスの呼びかけに答えて「網を置いて」「父を舟に残して」イエスに従いました。私たちも同じようにしなければならないのでしょうか?その必要はないと思います。なぜならば、私たち一人一人が置かれている状況や与えられている賜物は異なるからです。この時、彼らにはイエスの弟子としての特別な使命が与えられました。それでも、一つハッキリと言えることがあります。それは、イエスは私たちに、「神を愛し、人を愛する生き方を普段の生活の中で実践すること」を求めておられる、ということです。これが、「イエスに従う」ということではないでしょうか。そうすると、イエスに従うことは、むしろ、家族を愛し、家族に仕えていくことであり、勤勉に仕事に励んで、社会の一員として責任を果たしていくことでもあり、そして、周りにいる人たちに関心を持って、関わっていくことであると言えると思います。決して、「世捨て人になる」ことではありません。
このことを心に留めて、自分はどのようにイエスに従っていくべきなのか、祈り求めていきたいと思います。そして、示されたことを、普段の生活を通して実践してまいりましょう。