主日礼拝メッセージ(赤文字をクリックするとメッセージが聴けます。MP3ファイル)

使徒16:1-5 「ユダヤ人にはユダヤ人のように」  齋藤牧師

【今週のみことば】
「すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。」(Ⅰコリント9:22)

【礼拝メッセージ要旨】

16章からは、パウロの第二回目の伝道旅行の様子が描かれていきます。今日の箇所には、テモテとの出会いの出来事が記されています。この時パウロは、ある不可解と思えるようなことをします。

1)テモテとの出会い ~愛弟子を見出す~
バルナバと別れた後、パウロたちは、アンティオキアを出発して陸路で先に訪ねた町々を目指しました。リステラの町まで来た時にテモテと出会います。パウロは、この年若いテモテを自分の宣教チームに加えたいと考え、この時からテモテはパウロの旅に同行し、パウロの愛弟子となっていきます。

パウロがそれほどまでに信頼を寄せて、可愛がって育てたテモテとは、どんな人物だったのでしょうか。まず、彼の生い立ちに関しては、母親がユダヤ人で半分ユダヤ人の血が流れていました。しかし、父親がギリシア人であったため割礼は受けておらず、ユダヤ人からは異邦人とみなされていました。また、彼の信仰については、おそらくパウロの先の伝道旅行の時に福音を聞いてクリスチャンとなっていたようです。テモテへの手紙Ⅱを読むと、彼の信仰には母ユニケと祖母ロイスが大きな影響を与えていたことが分かります(1:5)。また、テモテは幼いころから聖書に親しんでいたようです(3:15)。我が子に神様を知ってほしいという、母親の熱い思いがあったのではないでしょうか。そうした背景もあって、福音を聞いた時に素直に受け入れることができたようです。幼い頃から神様のことを聞いているということは、本当に大きな恵みなのだと思わされます。また、テモテは人々から良い評判を得ていました。客観的に評価されるようなよい働きをしていたようです。パウロは、このテモテの信仰とその賜物に目を留めて、自分の弟子として育てたいと考えたのです。

2)テモテに割礼を受けさせる ~一見、不可解なこと~
ところが、この時パウロは、ある不可解とも思えるようなことをします。何と、テモテに「割礼」を受けさせたのです(3)。「割礼」を巡っては、これまでのところでも大きな議論となってきました。そして、エルサレム会議で、救いを求める異邦人に割礼を要求してはならないと決議されていました。それなのに、そのパウロ自身がテモテに割礼を受けさせたというのです。一見、彼の言っていることとやっていることに矛盾があるようにも思われます。パウロはなぜ、この時テモテに割礼を受けさせたのでしょうか。「その地方にいるユダヤ人たちのために」(3) これは、「その地方にいるユダヤ人たちへの配慮のために」ということです。パウロは、テモテが割礼を受けることにより、ユダヤ人社会から同胞として認めてもらえると考えました。そのことにより、テモテがユダヤ人との交わりに入って福音を伝えることができると期待したようです。もちろんパウロは、テモテの救いに割礼など必要ないことは百も承知でした。それでも、ユダヤ人たちの救いを願って割礼を受けさせたのです。当の本人のテモテも、喜んで従ったのではないでしょうか。

3)ユダヤ人にはユダヤ人のように
こうしてパウロの宣教チームにテモテが加えられます。「こうして諸教会は信仰を強められ、人数も日ごとに増えていった。」(5) その結果、神は彼らを用いて、その働きを大いに祝福されました。

この「テモテに割礼を受けさせた」という出来事には、パウロの宣教にかける姿勢(魂の救いを心から願う彼の熱い思い)が現わされているように思います。ここで、Ⅰコリント9:19~23に目を留めたいと思います。「ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました」(20) 律法を大切に生きているユダヤ人を救いに導くために、ユダヤ人たちの生き方に配慮して、彼らに合わせていった(仕えていった)というのです。その必要はないのにテモテに割礼を受けさせたことは、まさにこの姿勢から出たことでした。そのように、パウロは、福音を伝えるために自分の持っている自由や権利を制限することもいとわない、という姿勢を大切にしていました。「すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。」(22) パウロは、一人でも多くの人が福音を聞いて救われることを願っていました。そのために、一人一人に配慮をしながら、その人の心に寄り添う姿勢を示しました。相手の立場を思いやって、同じ目線に立って、イエスの愛を伝えたのではないでしょうか。

実は、神様が私たちにしてくださったことは、まさにこのことでした。無限の神様が、限界のある人間となって、この世界に降りて来られました。イエス様のことです。そしてイエス様は、私たちの罪を負って十字架の死にまでも従われました。それは、神様が何とかして、一人でも救いたいと願われたからです。パウロは、この恵みの大きさを本当によく分かっていました。そして、パウロ自身もそうした姿勢を大切にしながら福音を宣べ伝えたのです。

このパウロの姿に、私たちもならいたいと思います。今置かれているところで、周りの人たちに愛と配慮を示していきたいと思います。私たちにはどんなことができるでしょうか。まずは、家族や、身近にいる人たちを大切にすることです。イエス様が私たちを愛してくださったように、私たちも、周りの人たちを大切にして、仕えていきたいと思います。それは、信仰の面で妥協することや、迎合することとは違います。その人のことを思う心をもってすることです。そして、その人の救いを祈りながら、関わってまいりましょう。