主日礼拝メッセージ(赤文字をクリックするとメッセージが聴けます。MP3ファイル)

使徒15:36-41 「たとえ分かり合えなくても」  齋藤牧師

【今週のみことば】
「こうして激しい議論になり、その結果、互いに別行動をとることになった。」(使徒の働き15:39)

【礼拝メッセージ要旨】

今日の箇所には、パウロとバルナバの間にある問題が生じて、二人の間に亀裂が入ってしまうという出来事が描かれています。一見すると、ちょっとマイナスと思えるような出来事です。でも、そのことの中にも神様の恵みが注がれていました。

1)パウロとバルナバ ~良き相棒として~

教会の中に「割礼」を巡る問題が持ち上がった時、パウロとバルナバは急遽エルサレムに出向いて話し合いの時をもって、この問題を解決へと導きました(エルサレム会議、15章)。その後、彼らは決議文の記された手紙を携えてアンティオキア教会に帰り、兄弟たちを力づけました。それから数日後、パウロはバルナバに次の伝道旅行の提案をします。

ここで、パウロとバルナバの関係について改めて振り返ってみたいと思います。最初にバルナバがクリスチャンになり、ダマスコへの道で劇的な回心を遂げたパウロをエルサレム教会へ迎え入れます。その後、生まれ故郷のタルソで過ごしていたパウロをアンティオキア教会に連れて来たのもバルナバでした。バルナバ(慰めの子)は、パウロの伝道の賜物に目を留め、親身になってパウロに寄り添ったのです。そして、二人で力を合わせていくつもの困難を乗り越えてきました。まさに、福音宣教を共に担う、良き「相棒」でした。「相棒」は、二人一組で籠を担ぐ相方に由来します。二人で重荷を負い合って、「あうん」の呼吸で同じ方向に歩んで行く関係です。

2)分かり合えないこともある ~マルコを巡る対立~

ところが、この時、その信頼できる相棒であった二人の間に、大きな問題が生じて亀裂が入ってしまいます。バルナバがマルコを連れて行きたいと願ったことを、パウロはどうしても受け入れられませんでした。「こうして激しい議論になり、互いに別行動をとることになった。」(39) マルコを巡って激論となり、お互いに譲れなくなりました。

この出来事、マイナスと思えるようなことです。エルサレム会議の立役者でもあるパウロとバルナバ同士が、個人的な理由で対立してしまったというのです。聖書は、このマイナスと思えるようなことも赤裸々に描いています。ここに、人間の現実の姿が現わされているように思います。決していつも平和に穏やかでいられるわけではないことを物語っています。時には、どうしても分かり合えないこと、一致できないこともあるのです。では、こんな時、私たちはどうしたらいいのでしょう?本当に大事なことは何なのか、お互いに確認できればよいと思います。たとえ歩み寄れなくても、お互いの思いを受け止めることです。この時、パウロとバルナバ、それぞれに大事だと思っていたことがありました。バルナバは、マルコにもう一度チャンスを与えたいと願ったようです。一方パウロは、神様への使命感から失敗することは許されないと考えたようです。そう考えると、どちらも間違っていないと言えます。二人とも信仰に立って、福音の働きのためにこれが大事だと考えたのです。もし何か意見が対立するようなことがあった場合、お互いの立場を受け止めること(相手の立場に立って考えること)をぜひ心掛けたいと思います。

3)神様は益としてくださる

「バルナバはマルコを連れて、船でキプロスに渡って行き、パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて出発した。」(39,40)彼らは、結局このことでは一致できずに、それぞれ別の道へと向かいます。これも、神様が許されたこと、よしとされたことでした。このあとの二人の関係が気になります。しかし、彼らは決して喧嘩別れしたのではないようです。後にパウロは、手紙の中でバルナバとマルコのことにも触れています(コロサイ4:10)。お互いに信頼し、尊敬し合っていたようです。彼らの間にはイエス様が立っておられました。

一見マイナスと思えるこの出来事によっても、「益」とされたことがありました。2点、挙げてみたいと思います。
①一つは、「宣教の働きが広がった」ということです。二人がそれぞれ別の道を行くことによって、バルナバのチームとパウロのチームの2つの宣教チームが結成されることになりました。一度に、より広い地域に宣教がなされたのです。このことによって、より多くの町々、多くの人々に福音が届けられました。

②もう一つのことは、「マルコが大きく用いられた」ということです。この働きを通して、マルコはバルナバのもとで訓練されて、大きく用いられました。彼は後にパウロからも信頼されるようになり、ペテロの通訳としても用いられたようです。そうして「マルコの福音書」の著者となりました。

「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)このみことばが思い起こされます。神様に従って歩んで行く時に、神様の目から見て益となるように、神様はすべてのことを導いてくださいます。それは時には、自分にとって、益とは思えないようなこともあるかもしれません。それでも、それも神様の大きな御手の中にあることです。

このことを心に留めて、すべてを存じで、みこころのままに導かれる神様に信頼して歩んでまいりましょう。