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コロサイ人への手紙2:16-23 「律法主義に気をつけて」  齋藤牧師

【今週のみことば】
「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。(ガラテヤ5:1)

【礼拝メッセージ要旨】

コロサイの教会には、パウロが伝えたこととは違う、間違った教えを説く人たちが入り込んでいました。パウロは、そうした異端の教えに惑わされないようにと警告しています。

1)律法主義
ユダヤ教の背景のあるクリスチャンの中には、旧約の律法を厳格に守ることが大切だと主張し、教会に求める人たちがいました。彼らは、自分たちで「食べてもよいもの」「食べてはいけないもの」などのリストや、守るべき祭りや儀式、安息日にしてはならないことのリストなどを作り、独自の「戒律」を定めていました(16)。そうした戒律を守ることで救われる(自分の行いによって救われる)と考えたようです。パウロは、その間違いを指摘し、キリストが来られた今は、その必要が無くなったと語っています。それでも、そうした「律法主義」の教えに囚われて、縛られてしまう人たちがいたようです。ある意味、「行いによる救い」というのは、「分かりやすい」ことなのかもしれません。「これさえ守っていれば大丈夫」と安心できるからです。

私たちも、何か「~ねばならない」という思いに縛られていることはないでしょうか。信仰生活の中でも、例えば、「お酒は飲んではならない」とか、「仏式の葬儀には参列してはならない」とか、極端に考えるクリスチャンもいるかもしれません。聖書は、お酒を飲むこと自体が罪だとは言っていません。但し、お酒に支配されないように気をつけることは大切です。また、他宗教の葬儀であっても、その人のことを思って葬儀に参列することは愛を現わすことであって、イエス様が教えられた律法の本当の意味(隣人を愛すること)にかなうことです。もし、「~してはいけない」、「~しなければならない」と囚われているとしたら、自分で作った戒律に縛られていることになるのではないでしょうか。(21)

また、律法主義は、自分だけでなくて他人をも縛りつけてしまいます。「こうすべき、こうあるべき」という自分の基準で他人を計り、さばいてしまうのです。パリサイ人や律法学者たちがそうでした。自分の目の中に大きな梁があることには気づかずに、他人の目の中の小さなゴミを取るようなことをしないように気をつけたいと思います。

2)神秘主義
コロサイには「神秘主義」と言える異端も入っていたようです。彼らは「自己卑下」(見せかけの謙遜)や「御使い礼拝」(キリストよりも御使いの方が神に近い存在と考えて)によって、自分は特別な「幻」を見たと言って満足し、誇っていました。何か神秘的で特別な体験をすることが大事で、それこそが立派な信仰者のあかしだと考えていたようです。そうした考えは、人の主観によることであって、キリストに基づいたものではありません。

3)異端の間違い
異端の間違いをパウロは指摘しています。それらは①「キリストに結びついていないもの」であり(19)、②「神からではなく人から出たもの」であり(22)、③「肉の欲望に対して何のききめもないもの」でした(23)。いかなる「行ない」によっても人は救われません。全くの無力なのです。

4)キリストにある自由について
パウロは、クリスチャンはどんなものにも束縛されないで自由にされていると他の手紙で語っています。「キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。」(ガラテヤ5:1)キリストを受け入れる者は罪の奴隷から解放される、と聖書は約束しています。私たちが神様に対して負っている罪の負債を、神様はひとり子イエス様のいのちによって支払ってくださって、信じる私たちを罪の奴隷から買い取って、自由の身にしてくだいました。私たちは、この「キリストにある自由」をいただきました。本当に感謝なことです。

但し、一つ気をつけなければならないことがあります。キリストにある自由は「放縦」とは違う、ということです。そして、キリストによって与えられた自由をもって、人を愛し、人に仕える者となることが求められています(ガラテヤ5:13)。そのために、自分の意志で自由を行使しない、ということもあるかもしれません。イエス様がなされたことはまさにそうでした。

神様は、私たちを縛りつけているものから解放してくださいます。キリストにあって、罪の支配からも、「ねばならない」という思いからも私たちは自由にされているのです。このことを覚えて感謝をおささげしましょう。そして、その自由をもって、神を愛し、人を愛する者となりたいと思います。