●主日礼拝メッセージ(赤文字をクリックするとメッセージが聴けます。MP3ファイル)
マルコの福音書10:32-45 「贖いの代価として」 齋藤牧師
【今週のみことば】
「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」(マルコの福音書10:45)
【礼拝メッセージ要旨】
この個所でイエスは、「贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです」と言っておられます。「贖いの代価」とは、どういうことを意味しているのでしょうか。
1)エルサレムに向かわれるイエス
この時イエスは、弟子たちの先頭に立ってエルサレムに向かっていました。「弟子たちは驚き、ついて行く人たちは恐れを覚えた」とあります。イエスはこれまで2度「受難」の予告をしていました。弟子たちは、そうした受難は「エルサレム」で起こることだろうと感じ取っていたようです。どうして「殺される」と分かっているところへわざわざ向かうのか、という驚きと恐れであったと思います。そんな弟子たちにイエスは3度目の受難の予告をします。これまでよりも具体的に、ハッキリと告げています(33)。イエスはなぜ、ご自身の受難のことを予め弟子たちに伝えていたのでしょうか。彼らはイエスの復活後、イエスが予告されたことがその通り実現したことを思い出して、イエスが神ご自身であることを信じることができました。また、イエスが父なる神のご計画に従って自ら十字架に向かわれたことを理解することができたと思います。
2)ヤコブとヨハネの願い
弟子たちは、この時はまだイエスの言われたことの意味が分からないでいました。それどころか、ヤコブとヨハネの二人の兄弟がイエスに「一人があなたの右に、もう一人をあなたの左に座るようにしてください。」と願い出ます。やがてイエスがこの国の王となった暁には、自分たち兄弟をあなたの右と左の位に就かせてくださいと願ったのです。彼らは「偉くなりたい」と願っていました。これに対してイエスは、「あなたがたは自分が何を求めているのか分かっていません。」と言われ、「わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」と尋ねます。彼らは「できます」と答えていますが、実際ヤコブは、12弟子の中で最初の殉教者となり、ヨハネは晩年になってから迫害により島流しにされてしまいます。それでも、イエスの右と左に座ることはイエスが許すことではないと言って、イエスは彼らの申し出を退けました。これを聞いて、他の10人の弟子たちはヤコブとヨハネに「腹を立て始めた」とあります。彼らは、「自分こそ一番偉い」とひそかに思っていたようです。そして、互いにライバル意識をもって競い合っていたのです。この弟子たちの姿は、私たち人間の姿を映し出しているようにも思います。ここに、「自己中心」の人間の罪がよく表わされています。
3)贖いの代価として
イエスは、そんな弟子たちの思いをよく分かっておられて、世の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい権力をふるっていると言われました(42)。そして、「しかし、あなたがたの間では、そうであってはいけません。」(43)と言い、偉くなりたいと思う者は「皆に仕える者」になり、「皆のしもべ」になりなさいと告げました(43,44)。「仕える」という言葉には「給仕する」という意味があります。奴隷が主人の食事の席でそばに控えて食事のお世話をする姿です。しかし、イエスが言われた「仕える」とは、奴隷のように強いられてするのではなく、自ら喜んで誰かのために仕えることを意味しています。他者の幸福を願って、見返りを求めることなく他者に仕えることです。そのように、身を低くして他者のために仕えなさいとイエスは教えられたのです。それは、彼らが一番「なりたくない姿」であったと思います。イエスはどうしてこのように命じられたのでしょうか。その根拠となることとして、45節から2つの点に目を留めたいと思います。
①まず一つ目のことは、「イエスご自身が仕える者となられた」ということです。イエスご自身が、奴隷のように身を低くして私たちに仕えてくださいました。イエスの地上でのご生涯が、まさにこのことを物語っています。神の栄光を持つ偉大なお方が、限界のある人となってこの世界に来てくださいました。「家畜小屋」で生まれ「飼い葉おけ」に寝かされ、大工のせがれとして両親に仕え人々に仕えました。そして最後は、すべての人の救いのために十字架に向かわれたのです。イエスはこのお姿を通して、私たちへの模範を示されたのではないでしょうか。イエスが私たちに仕えてくださったように、私たちも神と人に仕える者となるということです。
②もう一つのことは、「イエスは贖いの代価としてご自身をささげられた」ということです。「贖い」と訳された言葉には「買い取る」という意味があります。当時、奴隷として売られた人を解放するために、家族や親戚がお金を支払って「買い取る」ということがなされました。そのために支払われた「身代金」が「贖いの代価」です。そのように、何かに束縛されている人を、代価を支払って解放することです。神は、私たちのために「贖いの代価」を支払ってくださったと聖書は語っています。すべての人は生まれながらにして罪の奴隷状態にあるというのです。神は、そんな私たち人間を罪の奴隷状態から解放するために、「贖いの代価」を支払ってくださいました。そのために支払われた代価が、神の御子イエス・キリストの血(いのち)だったのです。旧約の時代、罪の赦しのためにいけにえとしてささげられた動物の血による償いは不完全でした。やがて神は、私たちに人間に完全な罪の赦しを与えるために、完全ないけにえとしてイエスを遣わしてくださったのです。イエス様は、私たちを罪の奴隷から解放し、それまで離れていた神との関係を回復するために、あの十字架でご自身のいのちを「贖いの代価」としてささげてくださいました。神はそれほどまでに私たちを愛し、いとおしく思っておられるのです。
この神の愛と恵みが本当に分かるならば、「だれが一番偉いか」と言って、心配する必要は全くないのではないでしょうか。人と比べる必要もないのです。これほどまでに神に愛されて、仕えられた者として、私たちも、イエス様が示されたように、互いに仕え合う者となりたいと思います。