主日礼拝メッセージ(赤文字をクリックするとメッセージが聴けます。MP3ファイル)

マルコの福音書8:22-26 「心の目が開かれるように」  齋藤牧師

【今週のみことば】
「彼がじっと見ていると、目がすっかり治り、すべてのものがはっきりと見えるようになった。」(マルコの福音書8:25)

【礼拝メッセージ要旨】

今日の個所には、一人の「目の見えない人」がイエスのもとに連れて来られて、その目が開かれるという出来事が記されています。イエスは彼をどのように取り扱われたでしょうか。

1)目の見えない男性との出会い
その後、イエスの一行は船でガリラヤ湖の向こう岸にある「ベツサイダ」の町に到着します。すると、人々が一人の「目の見えない男性」をイエスのもとに連れて来て、彼にさわって彼の目を見えるようにしてほしいと懇願しました。この人は視力を完全に失っていました。目が見えないということは、私たちには想像できないほどに困難の多いことです。そんな彼がイエスに出会うことになりました。彼はなぜ、イエスのもとに来ることになったのでしょう。まず、彼自身がイエスのもとに行きたいと強く願ったからではないでしょうか。このお方ならこの目を開いてくださるに違いないと信じて、イエスに救いを求めたと思うのです。そんな彼の熱意を周りの人たちが受け止めて彼のために行動したのです。その人の思いと、その人を支える人たちの思いが一つになってこそ実現できたことです。

2)イエスの取り扱い
では、イエスはこの人をどのように取り扱われたでしょうか。まず、その人だけを村の外に連れ出しました。イエスは彼に個人的に向き合われました。あの「耳の聞こえない人」を癒やされたときもそうでした。しかし、今回は前回と少し違うところがあります。イエスはこの人を2回に渡って取り扱われました。イエスは最初、彼の両目に唾をつけ両手を当てて「何か見えますか」と尋ねますが、まだボンヤリとしか見えていません。するとイエスは、再び両手を彼の両目に当てられて、彼がじっと見ていると今度ははっきりと見えるようになりました。このところでイエスは、この人に確認をしながら取り扱いをされています。そして少しずつ、彼の目が開かれていったのです。

これは私たちの信仰の歩みを表しているように思います。私たちもイエスに出会い、罪からの救いにあずかりましたが、1回でイエスのことがすべて分かって完全にきよめられた、ということではありません。クリスチャンになっても失敗をします。私たちには依然として弱さがあります。その度に悔い改めて、みことばに励まされ、イエスのお姿に似る者へと少しずつ変えられていくのです。これがクリスチャンの信仰の歩みの歩みです(聖化)。私たちも彼のように、最初はぼんやりとしか見えていない(分かっていない)のかもしれません。そんな私たちに、イエスはみことばを通して、「今何が見えるか、何を見ているか?」と問いかけてくださっています。

3)イエスは「心の目」を開いてくださる
次に、この個所にある目の見えない人の姿とイエスのお取り扱いを通して教えられることとして、2つのことに目を留めたいと思います。
一つ目のことは、「イエスは私たちの心の目を開いてくださる」ということです。先週の個所には、パリサイ人たちや弟子たちの姿が描かれていました。パリサイ人たちは、イエスのことをハナから信じようとはしませんでした。自分たちの行いを誇り、自分たちこそ正しい者だと思い込んでいたからです。また、イエスの弟子たちも、目の前の現実の問題に心が囚われて、イエスがメシアであることを理解することが出来ないでいました。そんな彼らにイエスは、「目があっても見えていない」と言われました。彼らは霊的な目が閉ざされていました。それに対して、この目の見えない人は、イエスに会いたいと願い、人に頼んで連れて来てもらって、イエスの取り扱いを受けて、少しずつ目が開かれていきました。彼は「見える」ようにされたのです。彼の霊的な目が開かれたことを意味しています。そのように、イエスは私たちの霊的な目(心の目)を開いてくださるお方です。

では、私たちの心の目が開かれるために大事なことは何でしょうか。パリサイ人たちや弟子たちは、「自分たちは見えている(分かっている)」と思い込んでいました。でも、実は見えていなかったのです。一方で、この目の見えない人は、「自分は見えていない」と自覚していました。彼は自分の中にある罪深さや弱さがよく分かっていたのではないでしょうか。そして、イエスのことを聞いた時に、イエスに救いを求めました。ここに違いがあります。私たちはどうでしょう。自分はイエスのことがよく分かっている、と思い込んではいないでしょうか。分かっているようで、実は少しも分かっていないのかもしれません。イエスは、そんな私たちのことをあわれんで見ておられて、私たちの心の目が開かれるようにと願っておられます。「自分はまだまだ見えていない、弱いものである」ということを忘れないようにしたいと思います。

4)イエスにゆだねること
もう一つのことは、「イエスにゆだねる」ということです。イエスのもとに連れてこられたこの人は、「ゆだねる」ことを知っていました。自分一人ではどこへも行くことが出来ません。連れて行ってくれる人を信用して、その人に手を引かれて行きます。まさに「ゆだねる」のです。この人の目が開けられたのも、彼がイエスを信頼して、心からゆだね切ることが出来たからではないでしょうか。私たちはどうでしょう。イエスに全幅の信頼を置いて、「ゆだね切って」いると言えるでしょうか。自分の思いを優先して、ゆだねられないでいることはないでしょうか。このことを心にしっかりと留めて、私たちの救い主であるイエス様に、私たちの人生をおゆだねし、明け渡したいと思います。

イエス様は、私たちの心の目を開き、私たちを正しいところへと導いてくださるお方です。どんなときにも、ともにいてくださるイエス様に信頼し、導かれて歩んでまいりましょう。