主日礼拝メッセージ(赤文字をクリックするとメッセージが聴けます。MP3ファイル)

ピリピ人への手紙3:12-16 「ひたむきに前へ」  齋藤牧師

【今週のみことば】
「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追及しているのです。」(ピリピ人への手紙3:12)

【礼拝メッセージ要旨】

イエスに出会い、人生の一大転換を経験したパウロは、その後クリスチャンとしてどのように生きたでしょうか。今日の箇所には、その彼の生き様が表わされています。

1)パウロの目指したもの
「すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして追及しているのです。」(12)、 「うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし」(13)、「その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。」(14) このところから、何かを目指してただひたすら前に向かって進んでいる、そうしたパウロの姿が思い浮かんできます。彼が目指していたもの、それは「イエスの姿」であったと思います。具体的に目指していたこととして2点挙げます。
①一つは、「神から与えられた使命を全うすること」でした。それは、福音を述べ伝えることです。様々な困難や迫害に見舞われても、人々の救いを願い福音を宣べ伝え続け、福音宣教に命を懸けたのです。
②もう一つのことは、「罪との戦い」です。彼は、自分の中にある罪と戦い続けていたようです。ローマ書7章には彼の心にあった葛藤が正直に記されています。
13,14節には、そんなパウロの前向きな姿勢がよく現われています。ゴールを目指して最後まで走り切るマラソンレースのことがイメージされているようです。ただひたすら前に向かって行くという姿勢です。パウロにとって過去の功績など関係ありません。うしろのものを忘れて、ただ前へ前へと前進し続けたのです。私たちも、このパウロのように、いつも前を向いて生きていきたいと思います。

2)キリスト者として成長を目指す
聖書は、人は行ないによっては救われないと明確に語っています。そうすると、パウロが目標を目指して一生懸命がんばっている姿は、それと矛盾しないのでしょうか?もちろん矛盾はありません。彼は救われるために努力していたのではなく、「救われた者として」努力をしたのです。イエスの姿を目指して、一心に前に向かって走り続けました。

では、このパウロの姿は私たちに何を教えているのでしょう。「ですから、大人である人はみな、このように考えましょう。」(15) クリスチャンとして成長しなさい、大人のクリスチャンになりなさい、と教えていると思います。神様は私たちに信仰者として成長すること、そのために努力することを求めておられます。正直なところ、パウロのようには頑張れないと思うかもしれません。確かにパウロは特別な器です。みんながみんな、パウロと同じようには生きられませんね。それでも、少しずつでも成長することを目指したいと思います。「今のままの自分」で良しとするのではなくて、イエス様の姿を模範として「少しでも変えられていくこと」をぜひ目指しましょう。具体的には、一生涯かけてイエスに従い続けることであり、また、一生涯かけて神と人を愛する生き方を実践していくことでもあると思います。そのためには、自分の中にある「罪」と戦わなければなりません。神様に「練られながら」、大人の信仰者となるように努めたいと思います。

3)自分の身の丈に合った歩み方で
では、私たちが少しでも成長することを目指すために大切なこと(心に留めたいこと)は何でしょうか。「私たちは到達したところを基準にして進むべきです。」(16) パウロは決して、私と同じように全力で走り続けなさい、とは言っていません。「到達したところを基準にして」というのは、「一人ひとり、到達点が違う」ということを意味していると思います。つまり、「一人ひとり、成長の度合いは同じではない、みな違う」ということです。今、それぞれが到達しているところを基準にして、そこからそれぞれの「自分のペースで」、「自分の走り方で」前に進んでいきなさい、と励ましているように思います。それは、「自分の身の丈に合った歩み方で」一歩一歩確実に前進することを目指す、ということです。大事なことは、少しでも成長したいと願うことです。昨日よりは今日、今日よりは明日と、0.1ミリでも前に進めたら、良しと言えるのではないでしょうか。

イエス様の助けをいただき、励まされながら、一足一足、前に進んでまいりましょう。