●主日礼拝メッセージ(赤文字をクリックするとメッセージが聴けます。MP3ファイル)
ピリピ人への手紙2:5-11 「キリストのこころで」 齋藤牧師
【今週のみことば】
「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。」(ピリピ人への手紙2:6,7)
【礼拝メッセージ要旨】
パウロは、キリストのへりくだりの姿があるからこそ、私たちもへりくだり、思いを一つにすることができるのだと語っています。今日は、イエス様が示された謙卑の姿に学びたいと思います。
1)一致できない現実
ピリピ教会の中にもなかなか一致できないでいるという問題がありました。これは、古今東西、人の集まるところならどこででも起こりうる問題です。実際に、今の国連もうまく機能できていないという現実があります。パウロは、お互いにへりくだり、敬う心をもつようにと勧めています。そして、この勧めを心から実行できるものとなるために大事なことがあると、今日の箇所で教えています。
2)キリストを模範として
「キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい」(5) 「この思い」とは、互いにへりくだり敬う心をもつことです。それはキリストが示された態度でした。キリストが身をもって示してくださったことなのです。そのことを思い起こして、キリストを模範として、あなたがたもそうしなさいと語っています。このキリストのへりくだりの姿があるからこそ、それを根拠として私たちもへりくだり、思いを一つにすることができるのです。では、イエス様は私たちのためにどのように謙遜を示されたのでしょうか。
3)キリストの謙卑と高挙
「キリストは、神の御姿であられるのに」(6)イエスは、天地万物を造られた全知全能の神であられます。その神であるキリストが、「神としてのあり方を捨てられないとは考えず」(6)というのです。それは、「神と等しくあることに固執しないで、人となって人間としての限界を持った」ということを意味しています。イエスの降誕の出来事がそれをよく物語っています。無限の全能の神であられたお方が、無力な赤ん坊となって、限界のある人間のからだをとってこの世界に来られたのです。
「ご自分を空しくして」(7) これは、キリストが神であることをやめたということではありません。ご自身が持っておられた神としての当然の権利を放棄された(用いなかった)ということです。そして、「しもべの姿」(7)をとられました。ヨハネ13章に、最後の晩餐の席でイエスが弟子たちの足を洗った出来事が記されています。それはまさに、仕える者となったイエスの姿を表しています。足を洗う仕事は奴隷(しもべ)の仕事です。イエスはご自身を低くして、弟子たちに仕えられたのです。私たちのためにも仕えてくださったのではないでしょうか。「あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。」(ヨハネ13:14)私たちも、イエス様に仕えていただいたものとして、互いにへりくだって、仕え合う者となりたいと思います。
「自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」(8) イエス様は、父なる神様のみこころに従って私たちのために十字架でいのちをささげてくださいました。死に至るまで従われました。イエス様は、それほどまでに私たちのために謙遜を示してくださいました。神であるお方が、神としての特権を放棄して、徹底的に無力になって、どん底まで下られたのです。「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。」(9)父なる神は、どん底まで下られたキリストを高く上げられました。イエス様は今、父なる神の右の座に着いて、この世界を治めておられます。このイエス様の姿を思い起こして、私たちもイエス様がなされたように謙遜になることを願い求めたいと思います。
4)手放すこと
ところで、この箇所を思い巡らしていて一つ気づかされたことがあります。それは、「手放す」ということです。謙遜になるとは、何かを手放すことでもあるのではないでしょうか。何よりも、神様ご自身が大切なものを手放されました。父なる神様は、大切なひとり子イエスを手放され、イエスは、神のあり方を手放されました。それをよしとされたのです。私たちも、何か大事にしているものを「手放す」ように求められることもあると思います。それは私たちが必死に握りしめてきたものかもしれません(名誉や富、やめられない習慣、プライドやこだわり、誰かを赦せない心など)。神様は、「それらを手放しなさい、明け渡しなさい」と、言われることがあるように思います。自ら手放せない時は、「失う」という形で手から離されることもあるかもしれません。大切なものを手放すことはとても辛いことです。私たちはそれがなくなることを恐れます。それでも、それを手放す(神様に明け渡す)時に、それまで気づかなかった大事なことに気づかされるのではないでしょうか。あの「放蕩息子」(ルカ15章)は、すべてを失った時にハッと我に返ることができました。自分の姿に気づかされ、お父さんのもとにいたことがどんなに幸せなことであったか気づきます。そして、悔い改めて、お父さんのところへと帰っていきました。ちょうど、その姿のようなものなのかもしれません。そこで自分の本当の姿に気づかされて、本当の意味で、神の前にへりくだる者とされるのではないかと思います。手放すことによって、初めて見えてくる世界もあるように思います。それも神様の恵みです。
私たちはどうでしょう?今、何かを手放すことが心に示されているでしょうか?イエス様が私たちにしてくださったように、私たちも、神様の前にへりくだる者となりたいと思います。