主日礼拝メッセージ(赤文字をクリックするとメッセージが聴けます。MP3ファイル)

ピリピ人への手紙1:19-26 「今もいつものように」  齋藤牧師

【今週のみことば】
「私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。」(ピリピ人への手紙1:20)

【礼拝メッセージ要旨】

今日の箇所には、この時パウロが願っていたことがよく表されています。この時彼は、どんなことを願っていたのでしょうか。

1)パウロの願い
「このことが結局は私の救いとなることを知っているからです」(19) これは、「この苦難と思える出来事が益とされていく(喜びとされる)」、そんな意味合いで言っているように思います。彼らの祈りと聖霊の助けによって、このことを通しても福音が広められていることを彼は喜びました。さらに、やがて釈放されて、再び人々の救いのために自分が用いられるようになることも期待していたと思われます。
20節に、この時パウロが願っていたことが表されています。このところから、彼が願っていたことを3つの点から見てみたいと思います。
①一点目のことは、「どんな場合にも、いつものように」ということです。
彼は、どんな状況に置かれようとも、いつものように大胆に福音を語ることを願っていました。このところに、パウロの決してブレない信仰が表されています。「今も」ということは、「今のこの時、この一瞬一瞬も」ということです。パウロは、今のこの時を、いつものように精一杯生きていました。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」(Ⅱテモテ4:2) この言葉の通り、彼は順境の時も逆境の時も、いつも大胆に福音を語っていました。このパウロの「ブレない信仰」に私たちもならいたいと思います。私たちに対するイエス様の愛は変わることはありません。このことを覚えて、どんな場合にも、いつものようにイエス様に信頼して、自分のなすべきことに向かっていきたいと思います。

②二点目のことは、「自分の身によってキリストがあがめられること」です。
パウロは、自分の身を通してキリストがあがめられることを願っていました。彼はキリストがどんなに素晴らしいお方か、痛いほど分かっていました。そして、この素晴らしさをまだ知らない一人でも多くの人に伝えたいと願いました。またそれは、イエスから直接受けた使命でもありました。この身によって少しでも主のお役に立ちたい、そんな思いがあったと思います。

③そして三点目のことは、「生きるにしても死ぬにしても」ということです。
彼はここで殉教することも覚悟していたようです。もしそうなるとしても、この身を通してキリストがあがめられようにと願っていました。おそらくパウロの心には、あの「ステパノ」の姿が焼き付いていたと思います。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」(使徒7:60)ステパノの息を引き取る間際のこの祈りのことばが、パウロの心に残っていたのではないでしょうか。ステパノは、「一粒の麦」として地に落ちて、大きな実を結ばせました。そのようにパウロは、もし自分がここで殉教するようなことになったとしても、実を結ぶことになって、多くの人々が救われることを願っていたのです。

2)パウロの個人的な願い
「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」(21)ここにパウロの熱い思いが表されています。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19,20) この確信が、「私にとって生きることはキリスト」という言葉に表されているように思います。
「死ぬことは益です」パウロは、この世を去ってイエスとともにいられることがどんなに素晴らしいことか分かっていました。だからと言って、彼が死ぬことを願っていたわけではありません。生き延びて、兄弟たちを助け励ますことの方がもっと大切だと分かっていました。それが「神のみこころ」であり、自分のなすべきことだと受け止めていました。パウロは、個人的な願いよりも神のみこころのために生きることを願ったのです。

3)キリストの愛の中に生かされて
私たちも「生きることはキリスト」と言える生き方ができたらいいなと思います。そこで最後に、そんな彼の生き様から教えられることとして、2つのことを確認したいと思います。
一つは、「私たちはキリストの愛の中に生かされている」ということです。 私たちも、ガラテヤ2:20のみことばを自分のこととして受け止めたいと思います。もはや自分が生きているのではなく、私を愛してくださったイエス様が私たちのうちに生きておられます。私たちはイエス様の愛の中に生かされているのです。このことを覚えて、共にいてくださるイエス様に自分自身を明け渡していきたいと思います。

4)他者のために生きる
もう一つのことは、「他者のために生きる」ということです。パウロは、自分の個人的な願いよりも、他者のために生きることを優先させました。もし、自分の存在を通して他者を助け、喜びを与えることができるとしたら、自分にとっても大きな喜びとなります。とは言っても、パウロのように何か特別に大きなことをする必要はありません。普段の生活の中で、誰かのために、自分にできる小さなことをすることが大事だと思います。そして、そのことを「どんな場合でも、いつものように」忠実に続けることができたら十分ではないでしょうか。たとえ誰にも気づいてもらえなくても、主はご存じです。私たちも、他者のために生きる者となりたいと思います。

私たちはパウロと同じようには生きられないかもしれません。それでも私たちにもできることがあると思います。「今も、いつものように」主にお仕えしていきたいと思います。そして、私たちの身によって、少しでもイエス様の素晴らしさが現わされるような生き方を目指してまいりましょう。