主日礼拝メッセージ(赤文字をクリックするとメッセージが聴けます。MP3ファイル)

ピリピ人への手紙1:12-18 「それが何だというのでしょう」  齋藤牧師

【今週のみことば】
「しかし、それが何だというのでしょう。見せかけであれ、真実であれ、あらゆる仕方でキリストが宣べ伝えられているのですから、私はそのことを喜んでいます。」(ピリピ人への手紙1:18)

【礼拝メッセージ要旨】

パウロは、ローマの獄中にありながらも喜んでいました。今日の箇所にはそのパウロの喜びがよく表されています。彼は、なぜそれほどまでに喜んでいられたのでしょうか。

1)パウロの喜び
12節からはこの手紙の本文に入ります。彼はまず、自分の近況について報告しています。「私の身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったことを知ってほしいのです。」(12)自分が捕らえられたことで、かえって福音が広く伝えられるようになったというのです。そして、その理由として3つのことを挙げています。

一つは、パウロがローマ政府に捕らえられたことによって、福音がローマの役人と兵士たちに知らされたことです(13)。彼らはパウロを取り調べ、警護することを通して、彼がどうしてここに連れて来られたのかパウロの証しを聞くことになりました。一人でも多くの人に福音を伝えたいと願っていたパウロにとって、それは願ってもないことでした。

二つ目のことは、教会の仲間たちが強められていったことです(14)。パウロが捕らえられたと知って、教会はひるむどころか、兄弟たちの多くは「確信を与えられ、ますます大胆にみことばを語るようになった」というのです。パウロが自由に動けなくなったことは、教会にとって大きな痛手のように思われました。しかし、そのことによって、他の信徒たちが信仰を強められて、自分たちにできることをやろうと立ち上がっていったようです。そのことをパウロは心から喜びました。

そして三つ目のことは、パウロに敵対するクリスチャンたちによっても福音が宣べ伝えられていったことです(15-17)。教会の中には、パウロの働きを妬ましく思う人たちもいました。彼らは、自分たちの勢力を拡大し、それを誇るような思いで福音を宣べ伝えていたようです。そして、パウロを苦しめようとしていました。それに対してパウロは、「それが何だというのでしょう」と言っています。どんな動機からであれ、キリストが宣べ伝えられることを私は喜ぶというのです。ここにパウロの信仰を見る思いがします。

2)パウロのフトコロの深さ
このパウロの姿に教えられることがあるように思います。それは、「パウロの懐の深さ(心の広さ)」と言えるものです。獄中にあっても決してめげないで、福音が前進していることを自分の喜びとしていた姿に、大変励まされる思いがします。特に、教会の内部でパウロに反対する人たちに対して、「それが何だというのでしょう」と言えるパウロの姿に、彼の懐の深さを感じます。自分が何と思われようが、そんなことはどうでもいいことだというのです。私たちはどうでしょう?なかなかパウロのようには受け止めきれないかもしれません。人の目や言葉が気になって、本当に小さなことでくよくよしてしまいます。とても、「それが何だというのでしょう」とは言えないものです。

では、何が彼をそう言わしめたのでしょうか?それは、「神様の懐の深さ」から来るものだと思います。イエスの愛が、そうさせたのではないでしょうか。「すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。」(エペソ3:18,19) パウロは、イエスの愛がどれほど広く、長く、高く、深いものであり、人知を超えて大きなものであるかよく分かっていました。自分がどれほど神に愛されているか、自分の経験を通して痛いほど分かっていたのです。そうすると、たとえ自分が人からないがしろにされても、そんなことはどうでもいいこと、小さいことだと思えたのではないでしょうか。人からの評価は気にならなくなったのだと思います。彼はすべてを神に明け渡し、委ねていました。このパウロの姿に、とても励まされる思いがします。私たちも、このお方に一切をお任せすることが出来たら、もっと楽に生きられるようになるのではないでしょうか。

3)苦難の意味について
最後にもう一つ、今日の箇所から「苦難の意味」ということについて考えてみたいと思います。パウロの人生には、実に多くの苦難がありました。外からの迫害や教会内部からの問題、2度にわたる長期間の投獄に、持病も抱えていたようです。本当に困難の多い人生でした。そんなパウロの姿を見ていると、そうした一つ一つの苦しみと思えることにも何か意味があるのではないか、と思えるような気がします。もちろん無理やりこじつけてはいけませんが、例えば今日の箇所で、彼が投獄されたことで、教会はかえって強められて、兄弟たちが恐れずに大胆にみことばを語るようにされました。パウロが動けなくなった時に、他の兄弟たちが奮い立たされていきました。それは、教会にとって、大きな成長の機会、恵みの機会となったのではないでしょうか。

私たちには、苦しみの意味を完全に理解することはできません。神様だけがご存じです。それでも、このことだけはハッキリと言えます。神様は私たちのことを片時も忘れてはいないということです。私たちのことを深くいつくしみ、愛しておられます。人知を越えたキリストの大きな愛が、私たちを包んでいるのです。このことを覚えて、主に信頼して、私たちの思い煩いも、一切おゆだねしてまいりましょう。