主日礼拝メッセージ(赤文字をクリックするとメッセージが聴けます。MP3ファイル)

ピリピ人への手紙1:1-8 「キリストの愛の心をもって」  齋藤牧師

【今週のみことば】
「私がキリスト・イエスの愛の心をもって、どんなにあなたがたすべてを慕っているか、その証しをしてくださるのは神です。」(ピリピ人への手紙1:8)

【礼拝メッセージ要旨】

今日からしばらくピリピ書からご一緒に学びたいと思います。この手紙は、「喜びの手紙」とも呼ばれています。パウロとピリピ教会は、どんな関係にあったのでしょうか。

1)パウロとピリピ教会
パウロが第二回目の伝道旅行の時に、聖霊に示されてアジアから海の向こうのヨーロッパに渡り、最初に福音を伝えたのがこのピリピの町でした。そこで、紫布の商人であったリディアや、パウロが捕らえられていた牢獄の看守とその家族も救われ、教会が誕生します。ピリピ教会は、その後もパウロと交流を持って、献金や贈り物によって彼の働きを支えたようです。そんな感謝の思いを込めて、ローマの獄中からピリピ教会に宛ててこの手紙を書き送りました。この手紙を読むと、パウロとピリピ教会の間には本当に麗しい交わりがあったことがうかがえます。

2)ピリピ教会への感謝
今日の箇所には、パウロからピリピ教会へのあいさつの言葉が記されています。ここに、ピリピ教会に対する感謝の思いが言い表されています。このところを見ていると、本来あるべき「教会」の姿が見えてくるような気がします。それはどんなことでしょうか。特に2つの点に目を留めたいと思います。

3)ともに恵みにあずかる信仰の仲間
一つ目のことは、「ともに恵みにあずかる信仰の仲間」ということです。
「私は、あなたがたのことを思うたびに、私の神に感謝しています。」(3) パウロは、ローマの獄中でピリピ教会の兄弟姉妹たちのことを覚えていつも祈っていたようです。その祈りを通して、自分も祈られているということを確信することができたと思います。そうして、「こんなに素晴らしい仲間を与えてくださり感謝します」と、神に感謝をささげていました。

「いつも喜びをもって祈り」(4) 獄中にありながらも、パウロのうちには「喜び」がありました。それは、状況や気分に左右されない、決して変わることのないキリストにある喜びであったと思います。また、信仰の仲間がいる、という喜びもあったと思います。遠く離れてはいても、神への祈りを通して信仰の仲間とつながっていたのです。

「あなたがたが最初の日から今日まで、福音を伝えることにともに携わってきたことを感謝しています。」(5)ピリピ教会は、パウロの働きを陰で支えながら一緒に働いてきたと言っています。パウロと共にこの働きに携わり、ともに神の恵みを受けてきた(7)と、感謝を表わしています。祈り支えてくれる仲間たちがいたからこそ、パウロはあの大きな働きを成し遂げることができました。パウロ自身がそのことをよく分かっていたと思います。

このところに、「ともに恵みにあずかる」教会の姿が表されていると思います。教会の兄弟姉妹は、同じところ(神様)を向いて、一緒にやっていく仲間と言えるのではないでしょうか。私たちも、これからも主にある兄弟姉妹として、イエス様を見上げながら、ともに恵みにあずかってまいりたいと思います。

4)キリストの愛の心でつながっている仲間
二つ目のことは、「キリストの愛の心でつながっている仲間」ということです。パウロは、ピリピの教会を「キリスト・イエスの愛の心をもって」慕っていました(8)。「キリストの愛の心」とは、どういうことを言っているのでしょうか?

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これが私の戒めです。」(ヨハネ15:12) これは、イエスが十字架にかけられる前の晩に、弟子たちとの最後の晩餐の席で言われた言葉です。イエスが教えられたことの中で、弟子たちに一番伝えたかったことではないかと思います。「わたしがあなたがたを愛したように」イエス様は、私たちのために十字架でいのちをささげてくださったほどに私たちを愛しておられます。イエス様にとって、私たち一人一人は、かけがえのない尊い存在だからです。そして、「そのように、あなたがたも、互いに愛し合いなさい」と教えられました。これは、私たちが一生涯、向き合わされることなのかもしれません。何度も失敗して、そうはできない自分の姿に気づかされて、その度にイエス様の愛が思い起こされていく(ちょうどあのペテロのように)、そのようなものなのかもしれません。それでも、私たちの内には、「キリストの愛」が満ちています。イエス様の愛があふれるほどに注がれているのです。

パウロは、このイエスから受けた愛の心をもってピリピの兄弟姉妹たちのことをいつも思い、感謝と喜びをもって祈っていました。そのように、教会の交わりは、キリストの愛の心によって結ばれている交わりと言えるのではないでしょうか。教会の仲間同士、キリストの愛の心でつながっている。たとえ不完全であっても、キリストの愛がお互いをつないでいるのです。

このことを覚えて、私たちも、イエス様が私たちを愛してくださったように、イエス様の愛の心をもって、お互いに愛し合い、仕え合ってまいりたいと思います。