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マルコの福音書15:33-37 「代償のささげ物として」 齋藤牧師
【今週のみことば】
「しかし、彼を砕いて病を負わせることは主のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」(イザヤ書53:10)
【礼拝メッセージ要旨】
今日の箇所には、イエスが十字架につけられてから息を引き取るまでの出来事が描かれています。イエスは何のために十字架で死なれたのでしょうか。
1)闇が全地をおおう
イエスが十字架につけられて3時間後、「闇」が全地をおおいました。イエスは、人々のねたみや憎しみ、自己保身といった思いによって無実の罪で十字架につけられました。この「暗闇」は、そうした人の心にある「罪の現実」を物語っているのでないでしょうか。人の心は、自分ではどうすることもできない「罪」に覆われ、支配されてしまっているという現実です。「全地をおおっていた」ということは、例外なくすべての人をこの罪の暗闇が覆っていることを示しています。今の時代においても、いまだに戦争がなくなりません。人の罪のただ中で、イエスは苦しみを受けられました。
2)「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
聖書の4つの福音書にはイエスが十字架の上で語られた7つのことばが記されていますが、今日は特に、イエスが息を引き取る間際に言われた3つのことばに目を留めたいと思います。この時イエスはどんな思いでこの苦しみを受けておられたのでしょうか。
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マルコ15:34) このことばには、イエスが感じておられた本当の苦しみが表わされているように思います。イエスには、十字架で受けた精神的・肉体的な苦しみ以上に耐えがたい大きな苦しみがありました。それは「父なる神から見捨てられる」という苦しみでした。イエスは、人の罪を代わりに負うことによって、神の怒りを受ける者とされたのです。それは、父なる神との交わりから切り離されることを意味していました。この苦しみは、イエスだけの苦しみではなかったと思います。人間を罪から救うために、ひとり子イエスを人としてこの世界に遣わし、十字架に渡すということを自らご計画し、それを実行された父なる神様の苦しみでもあったのではないでしょうか。十字架の上で「わが神、わが神」と叫ぶイエスをご覧になって、父なる神様もどれほど苦しみ、悲しんでおられただろうかと思うのです。
3)「御手にゆだねます」
「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」(ルカ23:46) イエスは最後は、すべてを御父にゆだねる祈りをささげられました。どんなに苦しくても、「あなたの御手におゆだねします。どうぞあなたのみこころをなさってください。」と祈られたのです。これは、「わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」とゲツセマネで祈られた祈りに通じるものがあるように思います。ここに、イエスの父なる神に対する信頼が表わされています。
4)「完了した」
「イエスは酸いぶどう酒を受け取ると、「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。」(ヨハネ19:30)イエスは最後に「完了した」と言われました。これは「成し遂げられた」ということです。父なる神のご計画(みこころ)が成し遂げられたということであり、また、イエスご自身が「救い主」として自分に与えられた使命を成し遂げた、ということでもあると思います。このところからも、イエスが嘆き悲しみながら十字架で死なれたのではないことが分かります。
5)代償のささげ物として
では、イエスは何のために十字架で死なれたのでしょうか。イザヤ書53:10に、イエスが救い主として十字架でご自分のいのちをささげられたことの意味がよく言い表されているように思います。ここには、人々からさげすまれ、痛めつけられ、苦しみを受けるメシアの姿が描かれています。それはまさに、十字架の上で苦しまれたイエスの姿を表しています。「彼を砕いて病を負わせることは主のみこころであった」(10) イエスは、イエスを憎むユダヤ人たちの手によって、彼らの思惑通りに十字架につけられたかのようにも見えますが、実は、それは「父なる神のご計画」によることであり、「みこころ」がなされたということです。「彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら」(10) これは、イエスが十字架でご自分のいのちをささげられたことを示しています。メシアであり神ご自身であるイエスが、罪を犯した人に代わってご自身のいのちを「代償のささげ物」としてささげるというのです。しかしこれが、神がご計画されたことであり、「主のみこころ」でした。そのみこころは、イエスの十字架の死によって「成し遂げられ」ました。
一体神は、どうしてそんなことをなされたのでしょうか。私たち人間は、自分では自分の罪の償いをすることができないからです。それほど私たち人間の罪は大きく、私たちは罪の力に支配され、がんじがらめにされてしまっていることを物語っています。しかし神は、私たち人間のこの「絶望的な状況」に対して深い愛とあわれみを示されました。私たちを罪の奴隷から救い出すために、神が私たちの罪のために必要な償いをご自身で用意されたのです。神は、私たちの罪に対する「代償のささげ物」として、完全に罪のない、神の御子イエスの血をささげてくださいました。何という「恵み」でしょうか。イエスご自身もこう言われました。「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」(マルコ10:45) イエス様は、私たちの罪の償いをするために、十字架でご自身のいのちをささげてくださったのです。
イエス様の十字架に表わされた、この神の大きなご愛と恵みを覚えて、心からの感謝をおささげしたいと思います。そして、私たちの救い主となられたイエス様に信頼し、イエス様とともに歩み続けてまいりましょう。