●主日礼拝メッセージ(赤文字をクリックするとメッセージが聴けます。MP3ファイル)
エペソ人への手紙4:4-6 「一つのからだ」 齋藤牧師
【今週のみことば】
「すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父である神はただひとりです。」(エペソ人への手紙4:6)
【礼拝メッセージ要旨】
今日の箇所に「一つ」という言葉が出て来ます。私たちクリスチャンは、一人一人はみんな違うけれども「一つのからだ」とされていると聖書は語っています。それはどういうことなのでしょうか。
1)7つの「一つ」
今日の箇所では、なぜ私たちは御霊の一致を保たなければならないのか、その根拠となることを説明しています。ここに、一つであるものとして7つ示されています(召しの望み、からだ、御霊、主、信仰、バプテスマ、父なる神)。私たちクリスチャンには、これほど「一つであるという事実がある」と言っているように思います。これら7つのことを通して、パウロは何を伝えたかったのでしょうか。2点、目を留めたいと思います。
2)ひとりの神
まず一つ目のことは、「ひとりの神」ということです。「一つ」ということは、「ただ一つ」、「同じものは他にはない」(only one)ということです。「すべてのものの父である神はただひとりです」(6) 聖書に記されている、私たちが信じている神はただお一人、唯一無二の神です。これは、クリスチャンである方にとっては当たり前のことですが、世の中の多くの人々にとっては理解しがたいことかもしれません。特に日本では、「八百万(やおよろず)の神々」がいると信じられてきました。あらゆるものに神が宿るとされています。「神様」と言っても、たくさんいる神様の中の一人、と受け取られてしまうかもしれません。しかし、聖書を読んでいくと、そうではないことが分かってきます。創世記には、この世界が存在する前から唯一の神がおられて、その神がこの世界のすべてのものをお造りになったことが記されています。神は6日間かけてこの世界を造り、最後に私たち人間を造られ、この世界をご覧になって「非常に良かった」と言われました。すべてのものを造られた、この世界の創造主である神様はただお一人であり、私たちを造ってくださったお方です。私たちは、この同じ唯一の神様を信じているのです。このことをしっかりと心に留めたいと思います。
3)一つのからだ
もう一つのことは、イエスを信じる者たちは「一つのからだ」とされている、ということです。人間のからだは様々な部分から構成され、それぞれ異なる働きをしますが、脳からの指令によって一つのまとまった動きをします。そのように、クリスチャンの集まりである教会も、この人間のからだのようだと聖書は語っています。私たち一人ひとりは皆違います。それでも、その異なる一人ひとりが、同じ一人の神様によって呼び集められ、同じ一つの「キリストのからだ」である「教会」の一員として加えられたのです。「父よ。~すべての人を一つにしてください。」(ヨハネ17:21) イエスは、すべてのクリスチャンが一つとなることを父なる神に願いました。父なる神はこの祈りに答えられ、イエスの十字架の死によって信じる者たちが一つとされるようになりました。現在のキリスト教界を見渡せば、様々な教派に分かれ、聖書の解釈も礼拝のスタイルも様々です。一見、バラバラなようにも見えます。しかし、これら7つの点において一致していると言えるのではないでしょうか。例えば、「バプテスマは一つ」(5)とあります。儀式としてのバプテスマのスタイルは様々です。しかし、古い自分がキリストとともに葬られて、キリストと共に新しい命によみがえるという点において、バプテスマの本質は一つであると言えます。
バプテスマと関連して、「主の晩餐」も、クリスチャンとして一つとされていることを覚える時とされています。パンとぶどうの杯を皆で一緒にいただくことには、それを受ける者たちが一つとされていることを覚える、という意味もあります。イエスは最後の晩餐の席で、一つのパンを裂いて弟子たちと皆で分けて食べました。また、一つの杯から皆で飲んだのです。同じ一つのイエスのからだを食し、同じイエスの血を飲むことによって、私たちが一つとされていることを覚えるときです。私たちも、主の晩餐にあずかる毎にこのことを覚えたいと思います。
私はバプテスマを受けた年の夏に、ある宣教団体が主催した香港で開かれたクリスチャンの集会に参加しました。その集会には、世界中からクリスチャンの若者たちが集っていました。もちろん、お互いに初対面でしたが、一緒に寝起きし、一緒に食事をし、賛美をし、みことばに聞いて話し合ったりもしました。そこで、国や民族や人種を越え、言葉や文化も越えてクリスチャンは一つなんだな、ということを本当に実感し、とても励ましを受けて帰ってきました。その集会で出会った一人のマレーシアから参加した青年に、私が「あなたはどの教派の教会から来ましたか」というような質問をしたとき、彼はニッコリ笑って「私は一人のクリスチャンとしてここに来ました」と答えてくれました。それを聞いて、教派がどうだとかということよりも、一人のクリスチャンとして同じ神様を信じる兄弟同士だということが大事なんだよな、と随分納得したのを覚えています。今でも忘れられない、良い思い出です。
クリスチャンがイエス様にあって一つとされているということは、本当にすばらしいことです。このことを覚えて、お互いに愛し合い、仕え合いながら、御霊の一致を熱心に保ち続けてまいりましょう。