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エペソ人への手紙2:19-22 「神の家族として」 齋藤牧師
【今週のみことば】
「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。」(エペソ人への手紙2:19)
【礼拝メッセージ要旨】
今日はこの箇所から、「神の家族である教会」ということについて思いを巡らしたいと思います。「神の家族」であるとはどういうことなのでしょうか。
1)神の家族として
「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。」(19)パウロはエペソの兄弟たちに、かつて異邦人として神の契約の外にあった彼らが、今や旧約の聖徒たちと同じ神の国の一員とされ、「神の家族」とされていると語っています。血筋や民族に関係なく、同じ国民、同じ仲間とされたというのです。私たちも、イエス様を信じて、この神の家族の一員として迎え入れられました。これは本当にすばらしいことです。
教会はどうして「神の家族」と言えるのでしょうか。それは、天地を造られた天の神様を共通の「お父さん」とする「家族」だからです。イエス・キリストを自分の救い主として心に受け入れる者は、「神の子ども」として迎え入れられるようになりました。イエスを通して、私たちを造ってくださった天のお父様につながるようにされたということです。「子ども」とされた私たちは皆、兄弟姉妹となります。時代も国も民族も越えて、クリスチャンは皆一つの家族とされています。その関係は永遠に続いていくのです。
2)キリストが「要の石」
「使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。」(20)ここで、神の家族である教会がどのようなものであるかを建物に例えて説明しています。教会の「土台」は、「使徒たちや預言者たち」によって伝えられたイエスの教えである「福音」です。人の教えや思想でも教会のしきたりや伝統でもありません。神が与えてくださった「救いの福音」、「みことば」が教会の土台なのです。そして、キリストご自身が教会の「要の石」であると語っています。「要の石」とは、石を積み上げてアーチを造るときに最後に一番上に入れる石のことを意味しています。この「要の石」を入れることで、建物がしっかりと組み合わされて、崩れない建物となります。神の家族である「教会」にとって、その「要の石」に当たるものが「キリスト・イエスご自身」だというのです。牧師や信徒リーダーが要の石ではありません。教会の「要の石」はイエス様であることを忘れないようにしたいと思います。
3)神の家族であるために
「このキリストにあって、建物全体が組み合わされ成長し、主にある聖なる宮となります。」(21)ここに、教会が「神の家族」であり続けるために大切なことが記されています。私たちが神の家族であるために大切なこととして3点確認したいと思います。
①1点目のことは、「一人ひとりがしっかりと組み合わされている」ということです。教会にはさまざまな背景を持つ人たちがいます。私たちは一人ひとり皆違います。それでも、イエスを信じる信仰は同じです。私たちも、イエスによって集められて、一つのキリストのからだとされたのではないでしょうか。神の家族であるために大事なことは、その一人ひとりがしっかりと「組み合わされる」ことです。教会の中に「ほころび」がないようにしたいと思うのです。イエスが最後の晩餐の席で弟子たちに命じられたことは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ15:12)ということでした。この戒めを大切なこととして、お互いに愛し合い、仕え合ってまいりたいと思います。
②次に2点目のことは、「教会は成長する」ということです。私たちは、神の家族として「成長すること」が期待されています。それは、ただ単に教会の規模が大きくなるということではありません。一人ひとりが霊的に成長することです。私たちが目指すべき目標はイエス様の姿です。仲たがいしても、仲直りしてまた一回り成長させていただく。それが本当の家族であると思います。私たち一人ひとりが、イエス様の姿に似る者へと変えられていくように、霊的に成長することを目指してまいりましょう。
③そして3点目のことは、「聖なる宮となる」ということです。「主にある聖なる宮となります」(21)「聖なる宮」とは、かつてエルサレムにあった神殿をイメージしています。神殿は、神がそこに臨在されているという象徴の場となっていました。そのように、神の家族である教会、つまり私たちのただ中に神がともにおられるということを意味しています。私たちの交わりの中に神は住まわれるのです。「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」(マタイ18:20)教会がみことばを土台として、イエス様を真ん中に置いて、一人ひとりが組み合わされ、成長するときに、教会は聖霊によって、「神の御住まい」(22)としてふさわしく整えられていくのではないでしょうか。
私たちも神の家族として、ふさわしく整えられて、「主にある聖なる宮」とされていきたいと思います。