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エペソ人への手紙1:20-23 「キリストをかしらとして」 齋藤牧師
【今週のみことば】
「教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。」(エペソ人への手紙1:23)
【礼拝メッセージ要旨】
パウロは、キリストと教会の関係について「キリストは教会のかしらであり、教会はキリストのからだである」と説明しています。それはどういうことを言っているのでしょうか。
1)キリストに現された神の大能の力
パウロは、15節から続いている祈りの中で、神の大能の偉大な力がキリストのうちに現されたことを語っています。では、神の力はキリストにどのように現されたというのでしょうか。パウロはこのところで大きく3つのことを語っています。
①1つ目のことは、「父なる神は、キリストを死者の中からよみがえらせた」ということです。「神は~キリストを死者の中からよみがえらせ」(20)十字架につけられて確かに死なれたイエスを、父なる神は大能の力を働かせてよみがえらせました。イエスは、ラザロのように一時的に生き返ったのではありません。完全に、永遠に生きる者としてよみがえりました。神の大能の力によって罪と死に打ち勝って、決して死ぬことのない栄光のからだに変えられたのです。
②2つ目のことは、「父なる神は、キリストにすべてのものを支配する権威をお与えになった」ということです。「天上でご自分の右の座に着かせて」(20) 「神の右の座」とは、父なる神と同等の名誉とか権威があることを意味しています。イエスは、ただよみがえらされただけではありません。父なる神によって、王としてすべてのものを支配する権威、権力、主権が与えられたということです。しかも、過去、現在、未来に渡って全世界を支配するお方とされました。イエスは今、この全世界、全被造物を治めておられます。
③そして3つ目のことは、「父なる神は、キリストを教会にお与えになった」ということです。「神は~キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。」(22) 「教会」とは、神から呼ばれて集められた人たち、つまりクリスチャンの集まりのことを指しています。また、「かしら」とは、群れのリーダーとか司令塔のことを意味します。イエス様はすべてのものを支配されていますから、「すべてのもののかしら」とされています。このすべてのもののかしらとなられたキリストが、私たち教会のかしらとなられたのです。
2)キリストは教会のかしら
では、「キリストは教会のかしらである」とは、どういうことを言っているのでしょうか。大事だと思われることを2点確認したいと思います。
まず言えることは、「教会の真のリーダーはイエス様である」ということです。私たちは、本当にイエス様を教会のリーダーとして認めて従っていると言えるでしょうか。気を付けないと、イエス様よりも目に見える「人」に頼ってしまったり、「人」が教会を支配してしまったりすることもあるかもしれません(コリント教会のように)。どんなに小さな教会であっても、教会のかしらは万物の支配者であるイエス様です。牧師でも役員でもなく、ローマ法王でもありません。本当のかしらはイエス様なのです。私たちは、イエス様を真のかしらとして認めて、イエス様に従わなければなりません。人ではない、ということです。このことを忘れないようにしたいと思います。
もう一つ確認したいことは、「イエス様は、私たちの羊飼いとなられた」ということです。聖書には「羊飼い」のことが出て来ます。羊飼いは、命がけで羊の群れのお世話をします。「かしら」とは、この「羊飼い」のような存在と言えるのではないでしょうか。「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:11)イエスはご自分のことをこのように言われました。まさに、イエス様は十字架で、私たちのためにいのちをささげてくださいました。そのように、イエス様は私たちの羊飼いとして、私たちを守り、みことばで養い、正しい道へと導いてくださるお方です。この私たちの羊飼いであるイエス様にどこまでもお従いしてまいりたいと思います。
3)教会はキリストのからだ
パウロは「教会はキリストのからだである」と言っています(23)。「教会はキリストのからだである」とは何を意味しているのでしょうか。まず言えることは、私たちはイエス様につながって、「一つのからだ」とされているということです(ぶどうの木と枝の関係(ヨハネ15章)のように)。私たちは万物の支配者であるイエス様につながっていて、私たちにキリストのいのちが脈々と流れています。指先をちょっと切っただけで痛みを感じるように、誰かが苦しめば、かしらであるイエス様は、その人の痛み、苦しみを同じように感じてくださるのです。
「教会はキリストのからだである」ということについて確認したいもう一つ大事なことは、「キリストのからだの一員としての役割を果たす」ということです。人体に「手」がついていることに目的と意味があるように、キリストのからだの一員とされている一人ひとりは、その群れにとって無くてはならない大切な存在です。そして、それぞれにそこで果たすべき役割が与えられていると思うのです。それが、「賜物を用いて互いに仕え合う」ということです。このことを心に留めて、教会の中で自分にはどんな役割が与えられているかを考えながら、賜物を用いて互いに仕え合ってまいりたいと思います。
4)教会にはキリストが満ちている
「~すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです」(23)教会には、「キリストが満ちて」います。実際には、教会は不完全で欠けだらけです。それでも、教会にはイエス様のいのちが満ちあふれているというのです。私たちがどんなに欠けだらけでも、イエス様は教会を決して見捨てずに、いつまでも私たちとともにいてくださいます。何という恵みでしょうか。
この恵みを覚えて、イエス様を私たちのかしらとして、自分に与えられている役割を喜んで担い、ともに仕え合ってまいりましょう。