主日礼拝メッセージ(赤文字をクリックするとメッセージが聴けます。MP3ファイル)

創世記33:1-11 「和解という祝福」  齋藤牧師

【今週のみことば】
「神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。」(Ⅱコリント5:18)

【礼拝メッセージ要旨】

祈りの格闘によって変えられたヤコブは、いよいよ20年ぶりに兄エサウと再会を果たすことになります。彼らはどのように和解することができたのでしょうか。それぞれの思いを想像しながら見ていきましょう。

1)エサウの思い
「ヤコブが目を上げて見ると、見よ、エサウが400人の者を引き連れてやって来ていた」(1)この時、エサウはどんな思いでヤコブに会いに来たのでしょうか。果たして、本当にヤコブのことを未だに恨んでいたのでしょうか。ひょっとしたら、ヤコブとの再会を喜んで、歓迎して迎えようとしてやって来たのかもしれません。その後エサウは両親と共に暮らしていたため、父親から頼りにされていたと思われます。また、400人を連れてくるほどですから、経済的に充分恵まれた生活をしていたようです。そうしたことから、エサウの中には、ヤコブに対する憎しみはとうの昔に消えていたとも考えられます。

2)ヤコブの苦しみ
しかし、ヤコブはエサウを恐れていました。エサウが仕返ししようとしているに違いないと思い込んでいたのです。ヤコブの中には、兄を騙したという「良心の呵責」がありました。「赦されていない」という思いがあって、長く苦しんでいたと思います。

3)エサウとの再会
そんなヤコブを、神様は深いところで取り扱ってくださり、ヤコブは自我が打ち砕かれて、エサウの前に心からへりくだることができるようにされました。神様に一切を委ねて腹をくくったのです。彼は、恐れずに先頭に立って出て行きました。エサウの前に7回もお辞儀をしてへりくだるヤコブの姿を見て、エサウはヤコブの思いを受け止めます。そして、感動の再会を果たしました。もうお互いの間には、わだかまりはありません。ヤコブはようやく「赦された」という思いになれたのでしょう。大きな喜びとともに、20年間の苦しみから解放された瞬間でした。

4)それぞれの道を行く
エサウはヤコブからの贈り物を受け取ることを辞退しようとしますが、ヤコブはしきりに勧めて受け取ってもらいます。ヤコブの喜びと感謝の思いが感じられます。一方エサウは、ヤコブを自分たちの土地に招こうとして一緒に行こうと誘いますが、歩くペースが違うという理由でヤコブはその申し出を丁重に断ります。エサウが帰ったあと、ヤコブはエサウの向かった南にではなく、西に向かいました。エサウと一緒に暮らす道は選ばなかったのです。お互いに幸せに暮らしていくために神様が与えてくださった知恵であったのかもしれません。それでもその後も、お互いに兄弟として良い関係を保ったようです(35:29)。

5)神との和解について
最後に、「神様との和解」ということについて考えたいと思います。神様は、すべての人に神と和解するようにと告げています。聖書は、すべての人は生まれながらにして造り主である神に背いて生きている、と語っています。聖書が言っている「罪」とは、「的を外れている」ということです。神様という正しい的を外れて生きていること、それが罪だというのです。迷える羊のように、私たち人間は、自分が行くべき正しい道はどこなのか分からないでさ迷っているというのです。神様は、人間が本当に幸せに生きていくために、離れている神様との関係を回復することを望んでおられます。それが、「神と和解する」ということです。

 残念ながら、私たちは自分の力で神様と和解することはできません。羊には正しく導いて危険から守ってくれる羊飼いが必要なように、私たち人間にも、正しく導いてくれる羊飼いが必要です。その羊飼いとは、私たちのために人となられたイエス・キリストです。イエス様は、十字架ですべての人の罪の償いをしてくださいました。神様は、イエス様の十字架によって、和解の道を開いてくださったのです。これは神様の一方的な恵みによることです。

 「神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました」(Ⅱコリント5:18)私たちには、この和解の務めが委ねられています。神様に赦され、受け入れられていることの喜びと感謝を忘れずに、私たちも「平和をつくる者」(マタイ5:9)となりたいと思います。