主日礼拝メッセージ(赤文字をクリックするとメッセージが聴けます。MP3ファイル)

創世記31:43-55 「境界線」  齋藤牧師

【今週のみことば】
「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。」(ガラテヤ6:5)

【礼拝メッセージ要旨】

今日の箇所には、ヤコブに追いついたラバンとのやり取りが描かれています。このやり取りを通して、それまでこじれていた二人の人間関係の問題が解決へと導かれていきます。神様は、その問題をどのように解決してくださったのでしょうか。

1)ラバンとヤコブの応酬
ヤコブに追いついたラバンはヤコブを問いただしますが、ヤコブが内緒で逃げたことはそれ以上追及しませんでした。しかし、テラフィムが盗まれたことでヤコブに疑いをかけ、彼らの天幕を捜索します。結局テラフィムは見つからず、濡れ衣を着せられたヤコブは一気にそれまでの不満を爆発させ、強く抗議しました。

2)契約を結ぶ
この訴えを聞いてラバンは、ヤコブに契約を結ぶことを持ちかけます。ヤコブはそれを受け入れて、契約のしるしとして石の柱を立て、石塚を作りました。ラバンは、ヤコブを行かせる代わりにラバンの娘たちをひどい目に会わせないようにとヤコブに告げています。そのために、彼はこの石塚を「ミツパ」(見張りの塔)と呼び、神が間を見張っていると言いました。また、この石塚を境にして、それを越えてお互いに相手の領域に立ち入らないことを提案します。お互いの間に「境界線」を置いて、お互いに干渉することのないようにしたのです。これも神様が彼らに与えられた問題解決の知恵であったと思います。そうして彼らは一緒に食事をし、ラバンは帰っていきました。

3)何が問題だったのか?
彼らの人間関係の問題はどうして起こったのでしょうか。一つ言えることは、お互いの責任範囲が明確になっていなかったことです。ヤコブは、約束の14年間が過ぎても、なぜかそのままラバンに無償で仕え続けました。ラバンも、それでいいと思い込んでヤコブをいいように使い続けました。そんな関係がズルズルと続いて、ヤコブは不満を募らせていきました。ヤコブはラバンに「ノー」と言えず、ラバンに支配されていたのです。

4)「境界線」を置くこと
神様は、この問題の解決のために、お互いの間に「境界線」を置くという解決策を示してくださいました。では、「境界線を置く」とは、どういうことなのでしょうか。「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです」(ガラテヤ6:5)この「重荷」とは、普段の生活の中で自分が負っている責任のことです。一人一人にその人が負うべき責任がある、ということです。ヤコブは、自分が負うべき責任の範囲を越えて、本来ラバンが負うべき重荷まで負ってしまいました。一方ラバンは、本来自分が負うべき重荷をヤコブに負わせていました。「境界線を置く」とは、この自分の責任範囲を明確にすることです。その上で、自分の果たすべき責任を果たしていくことです。「よかれ」と思って誰かにしてあげることが、相手の自立を妨げたり、依存させてしまうこともあります。「境界線」があいまいになっていると、健全な人間関係が築けなくなることがあるのです。

お互いの間に境界線を置くために二人の姿から教えられることとして2つのことを確認したいと思います。一つは、「ノー」と言えることです。ヤコブは20年目にして、ラバンに対して「ノー」と告げました。「これは私の責任範囲を越えています」と、ハッキリ意思表示をしたのです。ラバンもヤコブの「ノー」を受け止めました。「ノー」と言うべき時に「ノー」と言えるように、また、他の人の「ノー」を受け止めることができるようになりたいものです。

もう一つのことは、「お互いに距離を置く」ことです。彼らは、石塚を置いて物理的に境界線を引いて、お互いに立ち入らないように取り決めました。人間関係には、「お互いに「ほどよい」距離を保つ」ことも大切です。

5)境界線は「壁」とは違う
「境界線」は、一方的に相手を排除するような「壁」とは違います。決して敵対したり、排除することではありません。境界線は、お互いの違いを理解した上で置かれるものです。たとえ理解できないことがあったとしても、お互いの立場を尊重することが大切です。

私たちクリスチャンの場合、「境界線を置く」ということは、「壁」ではなくて、間に「イエス様」を置くことでもあると思います。お互いの責任範囲を確認しながら、間にイエス様を置いて、良い人間関係を築いてまいりましょう。