主日礼拝メッセージ(赤文字をクリックするとメッセージが聴けます。MP3ファイル)

マタイ27:50-51、ヘブル10:19-25「隔ての幕は除かれた」    齋藤牧師

【礼拝メッセージ要旨】

今週は「受難週」となります。今日は、イエス様の十字架の死によって私たちにもたらされたことについて、幕屋との関連で考えたいと思います。

1)隔ての幕
イエス様が十字架の上で息を引き取られた時、「神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた」(マタイ27:51)とあります。この「幕」とは、神殿の奥の「至聖所」と手前の「聖所」を仕切る垂れ幕のことです。大祭司が年に1回だけ、いけにえの血を携えて至聖所に入る時に、この垂れ幕を開けて通る必要がありました。それ以外の日は幕で閉ざされていました。それは、それほど人が聖い神様の前に出て行くことができなかったことを表しています。
アダムとエバが罪を犯してエデンの園を追い出されて以来、人は神様との交わりから離れてしまいました。神様との関係が断たれてしまったのです。幕屋(神殿)の垂れ幕は、神様と人間の間にそんな大きな「隔たり」があったことを意味しています。人の中にある罪が、「仕切り」となって、神様との間を隔てていました。

2)十字架によって隔ての幕は除かれた
神様は、神から離れ、さ迷っていた(イザヤ53:6)人間たちのことを深くあわれんでくださり、ご自分の方から壊れていた人間との関係を回復しようと働きかけてくださいました。アブラハムを選び、祝福の約束を与え、彼の子孫のイスラエル人に律法を与え、幕屋を造り罪の赦しのためのいけにえをささげることを命じます。そうして彼らの子孫としてイエス様が生まれてきます。神のひとり子イエス様は、私たちの罪を完全に贖うために、人となり低くなってこの世界に入ってきてくださったのです。イエス様は、人々に寄り添い、神の愛を伝え、最後は人の罪を一切その身に引き受けて、十字架でご自身を完全ないけにえとしてささげてくださいました。全く罪のないお方の血が流され、ささげられたことによって、神様はそれで充分とされました。イエス様の十字架の死によって、神様と人間の間を隔てていた罪が取り除かれて、神様との関係が回復されました。「神殿の幕が真二つに裂けた」ことは、そのことを物語っています。

3)新しい道が開かれた
「私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。」(ヘブル10:19)かつて、人の手で造られた聖所には、動物の血を携えた祭司しか入ることができませんでした。しかし今、私たちは、イエス様を通して「まことの聖所」つまり、直接天の神様の前に進み出ることできるようにされました。私たちは聖書と聖霊様の助けによって神様の語り掛けを聴き、イエス様の御名によって父なる神様に祈る(思いを伝える)ことができるのです。神様との交わりが自由にできるようにされました。何という恵みでしょう。アダムの時以来閉ざされていた神様に通じる道が、イエス様の十字架のみわざによって開かれました。その「生ける新しい道」(10:20)は、すべての人の前に開かれています。イエス様こそが、父なる神様に通じる唯一の道なのです(ヨハネ14:6)。

4)私たちに求められていること
こうして大胆に神様の御前に出て行くことができるようにされた私たちに、神様が求めておられることがあります。今日の箇所から2つのことを確認したいと思います。
①一つは、「真心から神に近づくこと」(10:22)です。いつも神様を求めていくこと。具体的には、心からの礼拝をささげることです。これほどまでに神様に愛され、イエス様の尊い犠牲によって罪から救っていただき、神の子どもとしていただいたことへの感謝と喜びを忘れずに、心からの礼拝をおささげしたいと思います。
②二つ目のことは、「互いに励まし合うこと」(10:24,25)です。私たちの真ん中にイエス様を置いて、一緒に礼拝し、祈り、交わり、励まし合うことが、私たちには必要です。励まし合う仲間がいるということは、本当に心強いことです。特に今、コロナのことで一緒に集まるのが難しい状況にあるかもしれません。こんな時こそ、お互いのことを覚えて祈り合い、励まし合いたいと思います。

私たちのためにイエス様が十字架でなしてくださった大きな愛のみわざを覚えて、心からの感謝をおささげしましょう。