主日礼拝メッセージ(赤文字をクリックするとメッセージが聴けます。MP3ファイル)

ヘブル9:11-28「ご自身をいけにえとして」    齋藤牧師

【礼拝メッセージ要旨】

聖書は、イエス様は「完全な大祭司」であり、「完全ないけにえ」ともなられたと語っています。今日は、「いけにえ」という視点から、イエス様の十字架の意味を考えたいと思います。

1)人の罪のために「いのち」がささげられた
9章には、イエス様が完全な大祭司となられて、同時に完全な「いけにえ」となられた、ということがよく表されています。その昔、神様はモーセを通してイスラエルの民の贖いのためにきよい動物をささげるように命じました。神様に背いて生きているその罪が覆われ、償われ、赦されるために、牛やヤギなどをささげるように求められたのです。それらの「いけにえ」は、毎日ささげられました。「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです」(22)人の罪が赦されるためには、血が流されなければなりませんでした。血はいのちであり、いのちは他の何物にも代えられないかけがえのないものです。神様は、そのかけがえのない「いのち」を人の罪の代償としてささげよ、と言われました。但し、人のいのちではなく、動物のいのちです。
神様はなぜ人の罪の贖いのために「いのち」を求めたのでしょうか。一つ、ハッキリと言えることは、「それほど、人の罪は大きくて深刻なものだ」ということです。かけがえのないいのちを差し出さなければならないほど、人の罪は重い、ということを物語っています。神様は、その大切ないのちを差し出すことによって、人が自分の罪の大きさを自覚し、悔い改めることを願われたのではないでしょうか(詩篇51:17)。

2)動物のいけにえは不完全であった
イスラエルの民は、毎日、罪の赦しを求めて動物をいけにえとしてささげました。毎日、毎年繰り返されたのです。なぜでしょう?「雄牛とやぎの血は、罪を取り除くことができません」(10:4)動物のいけにえは完全ではなかったからです。それらは、ただ一時的に罪を覆うだけでした。ささげても、また罪を犯してしまいます。その度にいけにえがささげられました。

3)神様ご自身が完全ないけにえを与えてくださった
神様は、人の罪が赦され、きよめられて、すべての人が神の前に出て行けるようにと願われました。人間が神との交わりを回復することを心から願われたのです。そのために、人の罪を完全に取り除くことのできる「完全ないけにえ」を、神様ご自身が用意してくださいました。イザヤ53章には、完全ないけにえとなったお方のことが記されています。この方が私たちの罪の代わりに神の罰を受け、苦しみを受けることによって、私たちがいやされるというのです。このお方こそが、イエス・キリスト、イエス様です。イエス様は、私たちの罪の赦しのために完全ないけにえとなってくださいました。「しかし主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」(53:6)神様は、大切なひとり子イエス様に、人の罪をすべて負わせたのです。私たちには重すぎて負いきれない罪を、イエス様が全部代わりに負ってくださいました。
この預言はすべて、あの十字架の出来事で実現しました。ユダヤ人指導者たちのねたみや憎しみ、弟子たちの裏切り、民衆の罵り、ピラトの自己保身・・そうした彼らの罪、弱さを全部、イエス様は黙ってその身に引き受けられました。そして、十字架の上で、彼らの赦しを祈り、ご自身をささげられたのです。それは、私たちを含むすべての人のために、でした。イエス様は、人の罪を完全に赦すことのできる「完全ないけにえ」となって、あの十字架で私たちの罪を代わりに負って、いのちをささげてくださいました。ひとり子イエス様を私たちのためのいけにえとして与えてくださった父なる神様のご愛、そして、私たちを罪から救うためにご自身をささげてくださった御子イエス様の大きなご愛を覚えて、心からの感謝をおささげしたいと思います。
神様が私たちのためになしてくださったこの十字架の愛のみわざを信じて、イエス様を救い主として心にお迎えするならば、「あなたの罪は完全に赦された」と神様は言ってくださいます。それはどんなことにも代えられない、大きな喜びではないでしょうか。

十字架に現わされた神様の大きなご愛に、心からの感謝をもって応えてまいりましょう。